
「陰謀論」を安易に否定する人間に思うこと。
「陰謀論」という言葉を聞く機会が増えた。
「偏見や不十分な証拠に基づいて陰謀の存在を訴えている」ということで、得てして嘲笑の対象となる言葉である。
しかし、コロナ禍を通じて感じたのは「確固たる証拠がなければ何も言えない」という危険性だ。
物語や絵画、音楽……さまざまな作品に触れるたび、作り手の意図に想いを巡らす。
「この場面ではこんなことが言いたいのだろう」
「この表現はあの作品のオマージュだろう」
……感情や知識、経験値をフルに使い、今見えるものから「それ以上」を汲み取っていくことは本来、知的な行為のはずである。「1から1のことしか読み取れない人間は頭が悪い」と言われるが、安易に陰謀論を否定する人間からはそれに近い匂いを感じるのだ。
不確かであることをあざ笑いながら、政府、医師、専門家、マスコミ……ガッツリ利害関係のある人間たちの情報を「確固たる証拠」として自信満々に突きつけてくる。「医師や専門家がこう言っているだろう。素人のお前が何を偉そうに言ってるんだ」と。
たとえば学習塾の“受験の専門家”が「この授業を受けないと不合格になる可能性があります」と言ってきたら、それはすべて鵜呑みにしていいものだろうか。全部が間違っているわけではないのだろうが、相手の利益が関わっている以上、少しくらいは疑うべきであろう。
「不確かな情報を信じる奴はバカ」と言う人間は、確かなものがなければ何も言えない。
言えるとすれば予防線にまみれた「私はこう思う」なんて“Iメッセージ”が精いっぱいで、数字にすればただの「1」。数字が支配する現代において、そんな自己防衛に満ちた最小単位の発言は何の力を持つこともない。
誰にも否定されない言葉を探すたびに言葉に詰まる。間違えたくない、バカだと思われたくない……自分で何も言えないから、適当に取り繕ったうわべの言葉で本心を隠す。
気がつけばそんな人間ばかりである。
1から1以上を読み取る行為を悪く言うこと、失敗や間違いに対して不寛容な風潮が、人々から発言の機会を奪っている。機会がないなら想像する必要もない。やがて何も考えない人間となっていく。
1から飛躍していきなり10を語るのは愚かなことだが、1を1としか認識しない人間にはそれと「1からひとつずつ積み重ねた10」との区別がつかない。不勉強な彼らにとってはどちらも「1から突然10になったもの」であり、“その間”をつなぐパイプがイメージできないのだ。そうして真実に限りなく近い人間までもを「陰謀論者」と呼んでしまうのである。
聞いた話だけで“その間”を埋めているだけなら「ワクチンを打つと5Gが何たらかんたら」も「何も対策をしなければ42万人が死ぬ」も同じ穴のムジナ。誰の意見を信じたかの違いでしかなく、「陰謀論者だ!」なんて揶揄してる当人もまた陰謀論者である。
前回の記事(超サイヤ人の金髪は「黒の塗りが面倒だから」じゃない)は当初、陰謀論についての話を書いていた。
「鳥山先生がこう言ってるからそれが正しい」という短絡的な捉え方では真実を見誤るのだ。医師や専門家、たとえ作者本人の発言であってもそのまま鵜呑みにしてはならない。「根拠は?」と聞かれて即座に出せるようなソースでは非常に危険なのである。
大切なのは「1から1しか読み取らない」ではなく「1から10へ飛躍する」でもない、「1以上をどこまで積み上げられるか」……それは、見えてるものから見えないものを捉えていく力。
確かなものを探していこう。
