拝啓 社会の孤児たちへ
私は取り柄というものに関しては、人並み以下に少ない人間だ。
強いて言えば絵らしきものが描ける。今日までそれでなんとか食いつないできたが、それもおぼつかなくなって来るくらいには、これといった特技も長所もない。
自分から最も遠い"音楽"という存在
その中で「音楽」という存在は、とても貴重と言うべき大切な趣味だ。
とはいえ、楽器は尽く芽が出ず挫折し、今や楽譜すら読めるか怪しい。
極めつけにまあひどい音痴ときている。
しかし、音楽を「聴くこと」に関していえば、他では得られない安心感のようなものを得られる行為だ。
その理由は単純だ。所謂「音楽的センス」の全く無い私にとって、音楽は自分が安易に手を出して良いものではない、果てしなく遠い存在だからだ。
ただの消費者であれるのだ。
何気ない出会いと、何気ない消費行動
amazarashiというアーティストを知ったきっかけは、とあるゲームだった。
それなりに好んでいたそのゲームのイメージ楽曲を公式で作ったアーティストがいるらしい。それは、あのダウナーな曲をよく歌っているイメージのamazarashiだそうだ。どれ、一つ聴いてみよう。といった具合だ。
私はAPD(聴覚情報処理障害)を持っているため、曲を聴いただけでは歌詞をすべて聞き取ることはできなかった。だが音作りが気に入った。
そんなこんなで大して歌詞を気に留めることもなく、彼の作る「音」を好んで曲を聞き始めた。また良いアーティストを見つけたわ、そんな小さな喜びを噛み締めながら、フラフラと曲を渡り歩いては聴いた。
令和2年12月に配信されたライヴ「末法独唱 雨天決行」を見るまでは。
心臓に真っ直ぐ突き刺さった鋭利な"歌詞"
何年も前、と形容するには最近で、最近、と形容するには時が経ちすぎている。そんなぼんやりとした時間枠の中で、鮮明な記憶となって残っているもの、それが「末法独唱 雨天決行」だ。
相変わらずその素顔を見せない彼ー秋田ひろむーの後ろには、セットか本物かすら判断を鈍らせるような巨大なライトアップされた大仏。相変わらずすごいな、なんて頭の中でぼやいていたところ、二曲目にしてその時はやってきた。
彼の演奏するアコースティックギターのみを伴奏に、特筆するような特別感は特に無いまま、その曲は始まった。
大仏の横に投影される歌詞。その歌詞に、私はおそらく何気なく目をやったのだろう。どんな曲だったっけ、そんなことを思うか思わないかのうちに、私は大量の涙を流していた。
私の令和二年は、個人的ではあるが苦難に塗れた年だった。
体調不良からの突然の休職、一生ものの病気と障害の発覚、そして復帰を急ぐあまり疎かにした治療で仕事が上手くいくはずもなく、簡単に言えば「どん底」だった。
そんな中歌われた「未来になれなかったあの夜に」の詩が、私の心臓を深く深く突き刺した
沢山の涙が流れたが、不思議と私はそれを温かく感じた
ありがとうamazarashi。ありがとう秋田ひろむ。
おぼつかない頭で祈るように「ありがとう」を繰り返した
それが私の《令和二年》だった。
「未来になれなかったあの夜に」とは
ひろむ氏は自分の人生における悲しみや葛藤/憤りを歌にし続けていたわけだが「未来になれなかったあの夜に」には、これまでとは違う決定的な違いがあると思っている。
それは、ひろむ氏が自分自身のためだけでなく、リスナー、即ち私たちのような人間に向けて作られた、という点である。
彼の曲は私たちの背中を押さない
何故なら曲を聴く人間の立つ場所は、あと一歩踏み出せば飛び降りることの出来る断崖絶壁かもしれないから。
彼の曲は私たちをもっとがんばれと鼓舞しない
何故なら通勤電車の他人たちには到底及ばない、欠落した足りない人間たちは、既に頑張り続けて途方に暮れているから。
そんな彼が、項垂れる私たちに向けて歌ってくれた。
「今こそ僕が歌ってやるんだ」と、はっきりと自分以外の人間に向けて歌った歌
それがこの「未来になれなかったあの夜に」だと思っている。
今日この瞬間に泣いている社会の孤児たちへ
私は時々自分を責める。
何故この道を選んでしまったのか。何故人に誇れる特技だった唯一の分野を、人生を渡るための路銀に変えてしまったのか。
しかしその答えはただ一つ、「それしか出来なかったから」だ。他に特技も、学歴も、資格もない私が唯一選べた道が、今なのである。
生きるために手段を選べなかった、そんな「夢追い人」であり「社会の孤児」である人間は、私だけではない。もしかしたら、数少ないこの記事を目に留めた人の中にも、いるかもしれない。
もしそんなあなたがいたら、ひとつ騙されたと思って、この「未来になれなかったあの夜に」を聴いてほしい。
10分にも満たないその時間が今無駄に終わったところでその後の人生に何も影響はない。
しかし、幾つかの夜を跨いで、ある日ふと歌詞の一文が頭をよぎる瞬間があったなら、もう一度戻ってきて、もう一度この曲を聴いて欲しい。
その時はきっと、あなたは秋田ひろむの歌声によって、あなたが抱えている沢山の燻った夜たちに言ってやることが出来るようになるだろう。
「ざまあみろ」
と。
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