『同◯女の感情』ばりに「さ…最低だ私ーー!!」となったことがある
嫉妬とは、どうしてこうも創作行動につきまとうのでしょう。不思議なものです。
今でこそマイペースに同人活動をしている弊個人サークルですが、ここに至るまでに結構色々あったな〜と、例の漫画を見て思います。
去年の6月に彗星のようにTwitterに現れた「例の漫画」。「同人女の感情」、今は商業化して改題され『私のジャンルに「神」がいます』が正式名称らしい。
作者さんの他の漫画もあわせて見ていると、どうやら、百合とは行かないまでも女の子同士の心の交流を描くのがお好きなようだ。(「心の交流」と言うにはあまりにもデカすぎる感情ばかりだが)
この漫画は完全につくりものの世界の中のできごとで、大きな感情の揺れ動きは全て物語上の演出なのだが、現実世界に実在するあまたの同人女たちの共感を買ってやまない。
そもそも二次創作とは、結局は人同士の交流なのであり、そもそも創作活動の根幹にあるのは、人同士がひっきりなしにコミュニケーションを繰り返して・・・・・・・
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まぁそんなことはどうでもいい。
今回は私の経験談を聞いていってください。
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アラサーになってまで同人活動をやっていた(いる)のには理由があって、それはもちろん、推しを布教したいとか自尊心を満たしたいとか、趣味に没頭して満足したいとか、仕事からの逃避行動だとか、やめどきがわからないとかもはや中毒症状みたいなもんだとか、あげればキリがないほどにいろいろな理由かつ言い訳があるんだけど、
根底には、たっったひとつの出来事があって、それが一番の理由になっている。
子供の頃はみんなおえかきをして遊んでいた。それが抜けないままわたしは小学生になり、好きなアニメにはまって真似をして描くようになり、多くのオタクの御多分に洩れず同人サイトと同人文化に出会い、好きな作家のまねをして、いつしか好きなキャラのマンガやイラストを熱心に描くようになっていた。
わたしが初めて印刷所に入稿をして本を作ったのは高校生の時だ。
漫画研究部の部長になったわたしは文化祭ではじめて「部誌」を発行した。
印刷所に依頼をして、部員のみんなの原稿を集めて、入稿するというノウハウをそこで身につけた。
部誌の他にもラミカ(ラミネートカード!!)を作ったり各々が好きなキャラクターを描いたカラーイラストの展示をしたりと、与えられた教室のなかを色んなもので埋め尽くして、それはもう好きなようにやった。それが驚くほどに大盛況で、文化部の出し物の中でなにかしらの投票で1位になって(来た人たちの投票だったかな)、メチャメチャに浮かれた。本当に楽しかった。
そんな成功体験が後押しして、漫画研究部のメンバーの中からわたしを含めて4人で、実際に二次創作で「同人誌」を作ろう!ほんものの「本」をつくろう!イベントで売ってみよう!ということになった。
これがいけなかった。
いや、いや、こう言ってしまうと他のメンバーに失礼なので一応言っておくが、決して間違ったことをやったわけではないし、おそらく他の3人にとっては良い思い出になっていることだと思う。わくわくしながら楽しみながらマンガを描いたし、表紙を分担して描いてデジタルで合成して合作のように仕上げることも、高校生のうちに友達どうして同人誌をかいてイベントに出てしまうことも、なんだか他の子達より「進んでいる」気がして、ドキドキした。とても良い体験だったと思う。
全然売れなかった。
売れたのは1部だか2部だか。よく覚えていない。1部だったかもしれない。
確か刷ったのは全部で30部か50部か、まぁ大火傷になるまでの数ではなかったのだが、どちらにせよイベント当日はお葬式だった。
正しくは、わたし1人だけがお葬式だった。
AさんBさんCさんとわたしの4人としよう。AさんBさんは今でも遊んだり結婚式に招待しあったり連絡を取り合う仲なんだけど、Cさんは今は全然音信不通で、このCさんというのが、わたしの「感情」の行き先だった。
その子はメチャメチャまんがを描くのが上手だった。絵が上手というよりは、マンガを楽しんで描く天才で、「お話を描く」天才だった。と、今では思う。
部誌に載せる用でも、どこに発表しない趣味で描いただけのマンガでも、いつも他の子たちより長めのページを描くのだが、だからといって冗長というわけでもなく、だいたい長くても30ページ以内くらい。話はとてもシンプルで、わかりやすい。いつもすっきりと読み終わるような内容を描く子だった。内容は薄いといえば薄いのだろうが、何よりも、「ある程度のページ数を、オチまで描き切る」ことが、すごいことだった。なかなか当時、同年代でそこまでできる人はいなかった。わたしもその歳で、そこまではできなかった。
その子はそれが、あまり考えずとも当然のようにできてしまっているようだった。次々に好きな作品の二次創作マンガを描いては、漫研のメンバーに見せてくれていた。
その子に対してわたしは、口では「すごいね」とは言っていたものの、内心では、他の子達に褒められるその子のことを素直に認められていなかった。
「ふん、わたしのほうが絵が上手いし」と思っていた。
正直にいうと、その子のことを下に見ていたのである。
思い返せば私は当時、絵を描いて人に認められることで、自尊心を保っていたように思う。
小学生のとき写生コンクールで賞をとって誉められた。
学芸会のポスターを描いたのを先生にすごく気に入ってもらえて、特別に体育館の前に貼り出してもらって、みんなに見てもらった。
中学生のとき、運動会と文化祭のときは決まって、校内でポスターコンクールがあって、投票で優勝したものがその年の学校全体のポスターになって色んなところに貼られるんだけど、毎回、絵を描く友達たちと競い合って応募した。
入賞できなかったときには、先生や母親から「色が薄いからわかりにくかったかもね」「もっと文字を目立たせたほうがよかったんじゃない」「女の子だけじゃなくて、男女どっちも描いたら中学校のポスターって感じがするよ」「もっと明るい表情がよかったかもね」など助言をもらって、何が先生や親達に気に入られるポスターなのか、健全で「学生らしい」絵なのか、誰からも気に入られる作品になるのか、他の子と差をつけてコンクールで優勝できるのか、すごく分析して試行錯誤して、ついに校内で一位を取って、とても喜んだ。わたしが一番だ!と、目標を達成してすがすがしい気持ちになった。
高校になっても校内行事のありとあらゆる場面で絵を描いては、ダンス発表会のポスター、文化祭のパンフレットの表紙絵、広報誌の表紙絵、などなど、などなど、色々な場面で使われるようにした。「この目的のために使う絵は、こうあるべきなんだろうな」という考えが根底にいつもある、パブリックなイラストを描くことが得意になった。そんなハイティーンになっていた。
だからもちろん、漫画研究部で部長になるのも、文化部の中で一位をとるのも、当然だと思った。
Cさんはよく漫画を描いて見せてくれるけど、まぁしょせんわたしには及ばないし。なんてことを、本気で思っていた。
わたしがいちばん絵が上手い!
わたしがいちばん絵を描くのが好きだ!
わたしがいちばん絵のことをわかっている!
わたしがいちばん!
わたしがいちばん!!
わたしが!!わたしが!!!
そして、イベント当日(お通夜)である。
そもそも同人マンガなんて何を描いたら良いのか結局最後までよくわからなくて、クソおもんないシュール4コマみたいなものを描いて提出した。それでも線だけは誰よりも丁寧にしようと、すごく丁寧にクソおもんないシュール4コマみたいなものを描いて、うん、やっぱりわたしは絵がじょうず!と思って寄稿した。描きたいものを描いたなんて気持ちは全然なかった。この4人の中でいちばんだと思われたい、ただそのために描いたようにすら思う。もちろん描いていて満足感もなかった。
ここまで見向きされないものかとショックを受けた。
現実を知ったのである。
こんなにすてきな絵をかくひとがここにいるのに、どうしてスルーされてしまうのか?
どうしてここに輝くものがあるのに、みんな目を止めてくれないのか?
これほど、自分のすべてを否定されたような気持ちになる場面もないだろうと思った。
わたしがそんな状態なのに、Cさんはとても満ち足りているように見えた。
自分が描きたいものを描いて楽しかった、満足だという感じだった。
そりゃそうだ。描きたいものが描けて楽しかっただろうさ。
どうしてわたしだけがこんなに惨めな気持ちにならなければいけないのか?
なんでこの子はこんなに楽しそうなのか?わたしより劣っているくせに、Cさんのくせに、・・・・・・
本当に恥ずべきことなのだが、そこではじめて、わたしは自分の愚かさに気づいた。
Cさんを見下していること、同時に、嫉妬していることにようやく気づいたのだ。
「さ…最低だ 私ーー・・・!!!」になったのである。
そして、Cさんのことがとても羨ましく思えた。自分の描きたいものがあって、それを自由に表現できて、「描けた!」と満足しているところが、すごく羨ましかった。私もそうなりたいと思った。
その後、会場内で色々あって、
閉会後少し経ってから会場を出たのでそのときにはもう人影もまばらで、
物悲しい空気の中、わたしたちは揃って東京ビッグサイトの会場をあとにした。
そのとき、わたしは密かに1人で立ち止まって、東京ビッグサイトのあの逆三角形が一番よく見える場所で振り返って、こう思った。
この景色を忘れないようにしよう。
今日、悔しかったことを忘れないようにしよう。
また絶対、ここに来よう。
今度は胸を張って、来れるようにしよう。
自分で満足のいくものを作った、と思えるものをかいて、自信を持って、同じ場所に立とう。
ウソのような、ホントの話である。
よく考えたらクソキモいかもしれんけど、その時は本当にそう思った。
まぁAさんBさんには気づかれていたかもしれないし、実際口に出して言って、「何言ってるんだコイツ」と思われたかもしれない。よく覚えていない。
覚えていることは、夕日に照らされる東京ビッグサイトの景色と、自分の胸をみたす強いケツイ、それだけである。
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そうして二次創作でいろんなものをかきはじめて、わかったこともあった。
思春期に褒められるように認められるようにと絵を描いてきた私だが、どうやらそんな私の性癖は、人に褒められるようなものじゃなかった。
自分で言うのも悲しいしこういうことを言うこと自体が厨二病をこじらせているみたいに見えて恥ずかしいまであるのだがもう認めざるを得ない、私の中にある「表現したいこと」は、どうも人と共有しやすい趣味ではないらしかった。
…ということもあって、私はますます、年々、同人活動(二次創作)=「自分との戦い」の色が濃くなっていっている。
最近はようやく、それこそ中学生ごろから胸の内にひそかに芽生えていた「表現したいこと」を、自分らしく、うまいこと表現できてきているように思う。
ここまで来るのに紆余曲折したなぁ。同人活動とは修行のようだ。自分の人生と向き合うことでもあったようにすら思える。
「自分との戦い」の側面が強く出始めたあたりから、「反応がもらえて嬉しい」の意味も変わった。
反応=SNSの数値や部数などの「数」が、他人との比較ではなく、「自分が表現したいことをうまく表現できたか、うまく人に伝わったか」の目安にもなるからである。
「これは渾身だ」と思ったものほど、やっぱり「数」にも反映されていると思う。
メッセージをもらった「人数」でもあれば、たったひとりから貰った「すごい長文(文字数)」でもあるかもしれないし、発表してから「何年後」にもメッセージがもらえた、とかね。
自分との戦いとは言っても、それを見て誰かの心が動いてくれたら、やっぱりそれはとても嬉しいので。
そ〜〜〜〜〜〜〜れな!
今、こんな境地にまで来れたのも、過去の「さ…最低だ私ーー!!」の経験があったからこそなのかもしれない。
いかんせん、創作活動には、嫉妬というクソデカい感情がつきまとうものなのである。
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