コロナ禍は、風邪か?癌か?
2020年春の生活環境強制変化&対応を経て、怯えつつも「新しい日常」への模索が始まっています。変化時の即応よりも、リカバリの段階の方が、各人がどのように「問題」を見つめ方が分かるようで、自分の反応も含めて注視しています。
壁にぶつかった時の反応
「真綿で首を絞めるよう」と表現されるような、ゆっくりとした不気味さを伴った今回の「壁」。為す術がない訳でもない状況が、壁と向き合う姿勢となって現れたように思います。
姿勢は大きく3パターン:
1)壁の前に立ち尽くして絶望し、動けない人
2)壁を障害物だと思い、元あった状態に必死に戻そうとする人
3)壁を越えて、変革して生き延びようとする人
変革を目指す人の頭の中には、モノゴトを挑戦と維持と破棄の三つに分類して、それぞれに向き合っている印象を持ちます。この三つの分類の境界線に、それぞれの個性が出ていたのではないでしょうか。
一番端的に見えたのは、「オフィス」の問題。さっさと会社の賃貸契約を解約し退路を絶った経営者も居れば、戻ってくる場所としてオフィスの再定義に着手した経営者もいました。未だどの回答が本当に正しいのかは分かりませんが、少なくとも「東京一極」に異を唱えることが、単なる絵空事ではないことは証明されたように思います。時代は激しく動き出しています。
第一波を経て見えてきた対応指針
最初に、壁の前に立ち尽くした人も含めて、生き残らなければならないので、行動指針が必要になります。様々なニュースを見ていると、概要としては下図右側の五つのパターンに集約されている様に思います。
もう少し言葉を足すと下記です:
1)ビジネスモデルの変更
→ 企業)収益を得る場所そのものを変更して生き残る
→ 個人)収入を得る方法自体を見直す(住む場所も含めて)
2)プロジェクトの優先順位の変更
→ 企業)社内の「選択と集中」の基準を変更して生き残る
→ 個人)職住のバランスを見直す
3)商品仕様を変更
→ 企業)時代の変化に対応した「商品」に変更する
→ 個人)自分の「ウリ」を見直し、不得意分野なら学ぶ
4)省無駄/自動化
→ 企業)コスト削減
→ 個人)断捨離など
5)元に戻す
→ 企業)原点回帰というよりは、一過性の嵐への対応
→ 個人)なかったことにする、忘れる
コロナ禍での思索
今回の「世界同時変化体験」の凄いところは、上記の指針決定を様々なレイヤーで多くの人が、否が応にも考えたことです。
1)経営者
2)労働者としての個人
3)パーソナルな意味での個人
4)家庭(身近な「個人」の集合体)
5)地域社会に属する「私(我が家)」
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座して死を待つ訳には行かない以上、何か策を打たねばなりません。そして考えれば考えるほど、自分勝手に生き残れる訳もなく、今までもそうだったように誰かに依存している部分があり、幾重にも重なる複数の「自分」のバランスを考えなければならなくなりました。
会社にでて働いてさえいれば良かった生き方から、朝行って夜帰ってきたら、ウイルスを持ち帰っていて家族を危険にしている可能性だって見えてきました。「家族のため」という言葉が、虚ろに空回りしています。何が自分にとって大切なのか。
色々な考え方があって当然だし、正解の数は考えた人の分だけあるように思います。ただ、大きく分かれるポイントはあって、それは今回のコロナ禍をどう認識したか、どう記憶したか。例えて言うなら、「風邪」と思ったか、「癌」だと思ったか、です。
私は、幸運なことに、熱が上がることも、咳き込むことも、味覚がおかしくなることもなく過ごせて来ましたが、「九死に一生を得た」と認識しています。そして、今後もコロナ禍以上の何かが待っていると思えて来ています。
正直言って未だ諸々に結論を出せないで考え込んでいますが、このコロナ禍は、自分の立ち位置を整理する大きな機会でした。在宅環境を整えつつ、今まで手つかずだった本なども整理しつつ、備え始めています。