狂人と理想

狂人の客観と主観
狂人の客観 我々が思ってもみないところに目的性を見出すことができる→狂人は常識を超越していながら、常道に反さない。つまり、新たな常道を拓くことができる。
狂人の主観 その人のセンスが確かなものであり、それを見出す術も会得している。(センスがあるだけで、それを適用する感覚を知らなければ或る形の良さを示す美意識で活動することができない。)→狂人はサラッとしている=狂人は過ぎ去る人間である

狂人の主観と客観は、共同して一つの美意識を体現しなければならない。
何故なら、目指されている狂人は、孤高の存在ではないから。そして、分裂した人間でもないから。→狂人は調和している。

狂人は同時に明るくなる必要がある
これが狂人を超えた鍛錬。

何故、不良や不謹慎者と理想的狂人が区別されるか。
それは、不良や不謹慎者が、常道に反する行為にたいして、まさにそのことによって満足を得ているのに対し、狂人は、その行為自体で満足することはないからだ。
そもそも、狂人と思われる人の意識が、実際にどうなっているかと確かめること自体興醒めなこと。
何故なら、狂人は過ぎ去る人間だから。

狂人の特徴は、
集中、平坦、突発。
これは外的特徴であるし、また、意識の客観的特徴でもある。→鍛錬では、この特徴を意識する=意識しないでそうなるようにする。

狂人は態度か行為か。
狂人は態度であるべき。何故なら、狂人が行為であれば、その都度自分で意識されるが、それは、過ぎ去る人間という理想に反するから。
→狂人は習慣としての態度

狂人は常人が発狂することに特別頓着することはない。(個人の特殊な事情を除いて)→狂人は常人に反発しないし、常人の頓着を共有しない

狂人の種類

不良と不謹慎者→これは目指されている狂人ではない

自由な意識のない奇人→これも目指されていない

意志ある自由の良識人→これが理想

狂人が何故客観的に変わっている必要があるか
これは、むしろ常人こそがある意味狂人であるということで、常人は気づかずにそうありがちな感覚を感じ取って行為している。
狂人はそこから解放されているから自由。→狂人は「結果的に」変わっていがち

狂おうとして狂うことはできない何故なら、それは必然的に、狂気で正気の境を往復するだけに為るから。そうではなく、むしろ、狂気はその人自身にとっては正常だ。→理想的狂人にとって、客観的に言う狂気は正気

ただ、常人的な感覚から解き放たれている人は良き狂人と言えるか
習慣や、心的、外的な要因でより自由な正気を獲得した人物はそれだけで良き狂人となるかといえばそうではない。何故なら、良き狂人は内的なセンスによって行動が起こされているべきであって、自由とはその下地に過ぎない。例えば、ただ、常人的感覚から解き放たれているだけと人というのは、その習慣に固執している可能性がある。あくまで自由は表現のための可能性であって、表現そのものが自由の極端な表れではいけない。→常人的感覚の解放だけでは理想的狂人とはいえない

狂人は周囲の人によってそれを自覚させられるという話
狂人を自覚するきっかけがそれであるかもしれない。だけど、理想的狂人というのは、明らかな自由という感覚を受け取っているから、周りに位置付けられることなく、むしろ、自身が周りを位置付ける。→狂人の本質は自由

言えば体が、動いてくれることがある

年を経て獲得した若さは長続きする

十年の閃光より三十年の煌めき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?