みひろさんへ(オーダーメイド夢小説企画)
「みひろさん、ありがとうございます…! 僕その、なんて言ったらいいか…」
「いえいえ、そんなに気にしないで。次から気をつければ大丈夫ですよ。」
ミニーマウスの衣装をハンガーごと抱き抱えた後輩は、ぺこりと頭を下げると、急いで幕裏通路へと走って行った。彼は手に持ったドレスを、今とは逆の袖幕へと運んで行ったのだ。
ここブロードウェイミュージックシアターで行われるショー、ビッグバンドビートでは、25分という短い時間の中で出演者が何度も早着替えを行う。
その為、衣装や小道具があるべき場所に置かれていないという小さなミスがショーとして大きな事故になってしまうことがある。もちろん、汚れや稼働部分の故障があっても同じだ。それを防ぐのが私達の仕事。このショーは、全てのスタッフがミスなく仕事を行って初めて成り立つショーなのだ。
先程泣きそうな顔で通路を走って行った彼も、そのことは分かっているはずだ。彼はこの場所での勤務が2年目であり、慣れてきた頃にこそケアレスミスは発生する。誰もが一度は通る道。2年目の彼がそろそろ何かを見落とす頃であろうことも、私は分かっていた。だからこそ、彼の担当範囲までこっそりとチェックしていたのだ。
『みひろさんがいないとここ回んないっすよ』
そんなことを言われるくらいの年数をここで過ごしていて、今ではすっかりベテランと呼ばれる立場になってしまった。
やりがいもプライドもある。しかし、私がこの仕事をこの場所で何年も続けている一番の理由は、他にあった。
『ステージ上がります。5.4…』
インカムから聞こえるスタッフの声。それを合図に、幕の陰からステージの中央に目をやった。
軽快なジャズミュージックが響く中で、床下のステージが動く振動が伝わってくる。ゆっくりと、ゆっくりとその人は姿を見せた。少しずつ見えてくる白いタキシードが、ライトに反射してキラキラと薄く輝く。
観客に見えるのは後ろ姿だとしても、彼はしっかりと作り込んだ表情をしている。その横顔を見られるのは、私達裏方の特権だ。
ステージが全て上がり、彼が振り向いたその瞬間、客席側から歓声があがった。一瞬で全ての人間を魅了する存在。それが、ミッキーマウス。私をこの場所に何年も留めて離さない、世界一の大スターだ。
『暗転。ライト星空です』
タキシードの裾と伸ばした指先を舞台に残し、ミッキーの身体がするりと舞台袖にはけてきた。シンガーの艶やかな歌声を背に、目印の蓄光テープを踏んで歩くその様子は夜空の星を辿っているかのようで。すぐ横でショーが進行しているというのに、彼が存在するというだけで、どちらが表舞台なのか分からなくなる。
(本当に眩しいなぁ。)
観客たちは皆、この光を浴びにきているのだと思う。期待に胸を膨らませて劇場にやってきた観客全員を満足させてステージを終える。そんな彼のことが私は好きだ。
といっても、うら若い少女が抱くような淡い感情ではない。もしミッキーに恋人という特別な存在がいたとしても構わないと思っている。大人だからと割り切っているのではない。それさえも隠し通して夢だけを見せる、夜空一輝く星のような彼が好きなのだ。
それはもはや崇拝…というべきかもしれない。
そんなことを考えている間に順調にショーは進行していき、とうとう次はあの曲だ。これを目当てに劇場を訪れる人も多いに違いない、ショーのメインとも言える曲目。
ショー終盤はダンサーの早着替えも多く、舞台の袖や裏を多くの衣装ラックが行き交う。演者が通ればピタリと止まり、過ぎればすぐに走り出す。まるで交通量の多い道路のようだ。
ニューヨークのメインストリートを思わせるその光景の中。私はちょうど見てしまった。舞台中央のドラムに向かって機嫌良く歩いていくミッキーの黒いタキシード。その裾に、すれ違うラックからはみ出たハンガーの取っ手の先が。
「待っ…!」
私は咄嗟に飛び出し、倒れるラックを支えるように陰に回り込んだ。
「ワァッ!」
かしゃん。いくつか落ちたハンガーが床上で小さく踊り、そして動かなくなった。観客に異変を悟られる程の音量ではないだろう。
いや、安堵している場合ではない。ラックを立て直すと、すぐに後ろを振り返る。尻もちをついていたミッキーが立ち上がると、薄暗く不明瞭な視界の中でも、それははっきりと見えた。
(防げなかった…)
ラックが倒れるほどの勢いで布が引っかかったのだ。案の定、タキシードの裏地が思いきり破れてしまっていた。ビリビリ、という効果音が相応しいほどに広く裂けてしまっていて、裏返った裏地がひらひらと揺れている。
前方の席にいる観客には即座に気づかれてしまうだろう。
「す、すみません、私、ど、どうしよう!」
「大丈夫ですよ。それよりもまずはショーの進行状況と、予備の準備をしましょう」
青い顔をして繰り返し謝る衣装スタッフを落ち着かせ、進行確認用のスクリーンに目をやる。
(えっ)
思わず目を見開いてしまった。もうそんなところまで。時間でいえば、あと2〜3分で幕が開いてしまう。
ダメ元でスタッフに合図を送るが、険しい顔でバツのジェスチャーを返された。進行の段階上、今からでは間を持たせるアドリブが不可能なようだ。どんなに急いでも、予備を取りに行く時間も、着替える時間もない。テープで留めればライトの反射で光ってしまう。応急処置ですら厳しい状況だった。
大丈夫だ、と言ったものの、これは"詰み"だ。徐々に、鼓動が早くなるのを感じた。静かに冷や汗をかいていると、ミッキーがこちらに駆け寄ってきた。
「怪我はないかい!?」
「あ、いえ、私は大丈夫です。」
「君に怪我はないんだね? …よかった」
「いえ、よくないです…。申し訳ありません」
憧れていたスターと直接会話を交わすなんて奇跡のようなイベントだというのに、少しも嬉しくない。ステージに目をやると、既に配置についているダンサー達が不安そうにこちらを見ていた。もう、このままミッキーをステージに出すしかない。
彼の輝きを、少しも損ねたくなかったのに。思わず胸をぎゅうと手で抑えると、肩をポンと叩かれた。
「ねぇ、そんな顔をしないで。」
「すみません、全てこちらの責任です」
「大丈夫。これがあるよ」
「…えっ!?」
ミッキーは、いつの間にか脱いでいたタキシードを私の肩にかけると、少し奥に追いやられている、使用済み衣装ラックに手をかけた。手に取ったのは、私の好きなあの白いタキシードだ。序盤に出番を終えたはずのそれをさっと羽織ると、ミッキーはハハ、と楽しそうに笑った。
「今日だけのサプライズだね!」
ぽかんと口を開ける私をよそに、彼は軽い足取りで舞台中央へ向かっていく。そしていつものようにドラムの後ろに腰掛けると、ドラムスティックを構え、息を吸った。
『幕、開きます』
幕が開いた瞬間に、ざわりと客席がどよめいた。当たり前だ。予告もなく、いつもと違う衣装で登場したのだから。あの衣装を見たくて高額なチケットをとった人だっているのだから。
演奏は始まったが、いつもはうるさい程に鳴り響く手拍子が聞こえない。怖くて目を開けられなかった。
(あぁ…! ショーを壊してしまった)
震える手で、ミッキーからかけられた衣装の袖を強く握りしめた。そこで、はて? と思い、つい先ほどの出来事を思い返す。
ミッキーが衣装を……? 私の肩に……?
とんでもない失態に動揺していたが、それよりも動揺する出来事が起こっていることにようやく気づいた。
私は、ミッキーが先ほどまで着ていた衣装を羽織っている。
(はい…!?)
驚きで反射的に目を開けると、舞台上の様子が見えた。同時に、手拍子が無い理由がわかった。
観客は失望しているのではない。手拍子など出来ないのだ。きっと、今の私のように、ただ目と口を開いて、食い入るように見つめることしかできないのだ。
全ての衣装が黒と赤に統一されたステージの上で、唯一白く輝くミッキーマウスが踊っている。舞台上のどこにいてもスポットライトが当たっているかのように、その色は、その存在は突出して見えた。
ジャズバンドの演奏が曲の終了を告げると、一斉に眠りから目覚めたかのように、割れるような拍手が会場を包み込んだ。
カーテンコールでミニーやデイジーから白いタキシードの裾をつままれ揶揄われると、ミッキーは『間違えちゃった!』と言わんばかりのコミカルな表情をしてみせた。
大きなアクシデントを、こうも簡単に、エンターテイメントの演出として生かしてしまう。彼は本物の天才だ。
段々と幕が降り、拍手も大きくなっていく。幕が閉まり切ったその瞬間に、ミッキーマウスはこちらに向かってウインクを飛ばした。
思わずバッと視線を逸らす。
あぁ、これだからあの人は。ミッキーマウスは。
床に貼られた蓄光テープの淡い光を見つめながら、そう思った。
私の中のどこかにいたらしい少女が『ねぇ』と微笑み扉を叩く。いやいやいや、それは流石に、そうじゃないはず。
私はその扉に背を向けて、微かに香る春の匂いを振り切るように小さく首を振った。
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