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権力って儚いんだよね(三世議員の自己紹介記事)

 私の伯父さんは渡辺喜美(わたなべ・よしみ)という人で、2010年前後に一瞬だけブレイクした政治家だった。
 当時、喜美さんが率いていた政党・みんなの党は公明党の得票数を超えていたし、年末の流行語大賞で「第3極」や「アジェンダ」が話題になっていたから、ブレイクしたって言葉を使っていいと思っている。

 よく、流行語大賞を受賞した芸人はキャリアのピークだってネタにされるけど、人気商売の政治家も似たようなところがあって、今となってはまさにその頃が喜美さんのキャリアの絶頂だった。

 ところで、あの頃の喜美さんはカッコよかった。同期に先駆けて大臣になって、周囲はこれからの出世に大いに期待してた。だけど、盟友の安倍総理が政権(一次政権)を投げ出した後、喜美さんは「自民党はしがらみばっかりで改革はできない!」といって出世を捨てて独立、みんなの党を作った。ちょうど麻生政権の末期で、民主党の政権交代がほぼ確実視されていた頃で、自民党からの離党・追随者を見込んでの行動だったんだろうけど、フタを開けてみれば全然人は集まらなかった。

 でもそれは結果としてよかったかもしれない。選挙が怖くてフラフラしている現職議員をリクルートするんじゃなくて、志を共にする新人を発掘する路線をとれたからだ。自民党は結党から50年を超えていて、上が詰まって、かといって代替わりは世襲ばっかりで。たとえ若くて優秀で志があって、政治家を目指していても、コネがない人は自民党から相手にされなかった。みんなの党はそういう人材の受け皿になった。

 それから選挙があるたび、2009年の総選挙、2010年の参院選、2011年の地方統一選、どんどん仲間が増えていった。

 私はちょうどそのころ社会人になった。社会人になる前、在学中に一度、進路について喜美さんに相談したことがある。当時、安倍内閣の金融担当大臣だった喜美さんとは金融庁の看板を掲げている、役所っぽくない現代的な巨大なビルの応接室で面会した。会うまでの時間、広すぎる部屋の応接用のソファーでひとりポツンと座っているのがとても長く感じた。

 現れた喜美さんは一通り私の話を聞いた後、
「将来、政治家になりたいんだったら、まず就職した方がいい。これからの時代は民間の経験がない政治家は役に立たない」
 とアドバイスしてくれた。喜美さんは大学卒業後、政治家だった父親(私にとっては祖父)の秘書になったから、その反省を言ったのかもしれないし、もし私が喜美さんの秘書にしてくれと言われたら困るから予防線を張ったのかもしれない。だけど、私はこれで決めた。就活をして、小さな企業に就職した。

 その会社には3年と少し勤めたけど、東日本大震災が起こり、大自然の力で人も街もあっという間に流されしまう映像を見て、いつ何が起こるかわからないから、本当にやりたいことをやろうと、政治の世界で勝負することにした。

 その時に相談したのもやっぱり喜美さんだった。喜美さんはこの頃すでに自民党をやめ、ベンチャー政党・みんなの党を創業していた。みんなの党は勢力拡大の真っただ中で候補者を探していた。私が「来年の都議選にでようと思う」と話したら、喜美さんは「もうすぐ解散があるから都議じゃなくて衆議院にしろ」といって、ここが空いている、と具体的な選挙区を提示した。私は「いえ、都議選で」と再度希望すると、都議選の候補者は公募してるからそれに応募しろ、とあっさりした返事で、私は帰ってから書類を整えて公募申請した。

 結局、みんなの党で出馬した都議選は落選した。選挙では喜美さんにも応援に来てもらったが、私の周りでは「もっと応援してくれれば」と不満の声もあった。でも、喜美さんは当時党内で江田憲司さんと激しい主導権争いをしていて、甥っ子の私に肩入れすれば、他の候補者の手前「身内びいき」と批判され、かたや私が負ければ「渡辺喜美の人気低下」、と言われる難しい立場だった。だから他の候補者とフェアに扱ってくれたんだと思っている。

 落選後、喜美さんは「少し修行しろ」と言ってくれて渡辺喜美事務所で働くことになった。事務所では大した仕事をしたわけではなかったけど、いろいろな政治の場面を見せてもらって大きな財産になっている。

◆転換

 秘書になって半年ほどで、喜美さんはDHCの会長から簿外で多額のカネを借りていることが、当のDHC会長本人が暴露して大スキャンダルになった。結局この事件は不起訴になるのだけど、そうこうしてる間に、党は空中分解し、喜美さんは落選して、渡辺喜美事務所も解散状態になった。

 さあどうしたもんかと思っていたが、近くにもう一人困っている人がいた。私の兄だ。兄はよしみパワーで全国から5万票余り集めて参議院議員になり、永田町で忙しい喜美さんに代わって、地元で活動し、留守を守る城代家老のような存在になっていた。その親分であるはずの喜美さんが落選後、雲隠れ状態、自失呆然状態で全く表に出てこず、地元で活動を続けていた兄が批判を一身にうけていて、そんな兄から手伝ってくれとオファーがあり、兄の事務所で働くことになった。

 それから兄はさまざま動いて自民党(会派)入りをする。自民党からすると、野党転落期の一番厳しい時期に砂をかけて出ていった渡辺喜美は絶対に許せない存在だったから、兄はそれなりに苦労して自民党に入った。同じころ喜美さんもさまざま運動して維新の公認を得て、選挙で当選し国政に復帰した。甥と伯父で、自民党と維新の会、別々の道に進んだ。

 私が2019年、区議会議員選挙に自民党から出馬したとき、伯父はわざわざ2人の対立候補を立ててきた。対立候補ポスターには喜美さんの写真がデカデカ載っていた。この対立はちょっとした話題になって週刊新潮の取材が入り、喜美さんは「まあ切磋琢磨ということでいいんじゃないですか」とコメントをしていた。(伯父には申し訳ないが、この選挙で私は上位で当選して、2人の対立候補は落選した。)

◆権力は強いが、維持するのは難しい

 伯父からすれば、目をかけてやった二人の甥っ子が、一番苦しい時に離れていき、蹴って出ていった自民党に入ったことが気に食わないんだと思う。だからわざわざ、たかが区議会議員の選挙にまで対立候補を立ててきた。私も伯父にはお世話になったし感謝もしている。でもどんな運命なのか、いつの間にか袂をわかってしまった。

 ときに想像する。もし伯父が力を持ち続けていたら、私はいまだに伯父に付き従っていたかもしれないと。

 権力は強いものだけど、維持するのはとても難しい。

 私の祖父は総理を目前にして亡くなった。その死期が近いとみるや、可愛がっていた側近議員たちが次々に離れていった。
 人気絶頂だった伯父も永田町を肩で風を切って歩いていたのは、大臣とベンチャー政党の党首をやっていたほんの数年間で、政治家としての最後はどこの政党にもいれてもらえず、選挙にも出られずひっそりと引退した。

 この10年、日本最高の権力者だった安倍元総理が殺害されて、安倍元総理のもっていた権力はいったいどこに消えてしまったのだろうか。その権力の源泉であった安倍派もたった1年で消滅してしまった。

 権力は過ぎ去った後は驚くほど何も残らない。私の祖父や伯父は公共のために命を捧げ、権力争いでやぶれ、散っていった当事者だった。祖父や伯父の戦いのあと、焼け野原に残された私は権力の中心からはとても遠い位置にいる。

 ニュースでも、SNSでも、書籍でも、権力は強さの部分だけがクローズアップされる。だけど、それはほんの一面で、本当の権力は、魅力的で、はかなくて、掴んだと思っても、手からすぐ滑り落ちてしまう。祖父や伯父が体験したであろうそんな権力の姿を、三世の私がnoteで書いていこうと思う。

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