12/4-10
4日
お茶会という行為は、地域によって捉え方が異なってくる。それは、実家に戻ったときにお茶会をしてから気づかされた。実家のある地域は、田舎と呼んでも否定する者はいない程度の場所にある。以前、顔を出したとき、時間が余ったからお茶会しようということになり、わざわざ車で片道20分をかけてチェーンの喫茶店に向かう。そこで僕は、ホイップなんかも追加して、普段頼まない高い飲み物を注文し満喫するつもりだった。しかし、一緒に来た人たちは、自身のカップが空になったとたん、せっせと会計の準備をし始める。贅沢に積み上げられたトッピングを胃の中に詰め込んで店を出た。
よく見れば、店の中はガラガラで居座っている客は誰一人いなかった。
お茶会という文化の違いを思い知らされた出来事だった。
だから、今日みたいにコーヒーを手に、適当な話をしてゆっくり過ごすのはとても充実したし、ほぐれるような音がした。
もちろん、投げやりな適当なんかではない。このタフな時代だからこそ、適当でいられることは、いいんじゃないかと思う。それは、一人では決して作れない空間であり、誰でもいいなんてことはあり得ない。好きなことをしてそれを共有できることは、簡単なことではない。それゆえに素晴らしいことだと思う。ありがとう。
5日
行動原理に、昔はダメだったねだとか、未来の自分や人から恥だと思われない。そんな生き方をしたいと思っているし、そのつもりで自分なりに生きてきた。だけど、そううまくはいかず、埋めてたと思っていたところから滲み出るように漏れ出していたなんてことは、数えきれない。
勉強成果は、現れず質も量も僕には足りていない。自分自身を恥じている。
漏れ出しているところにテープを一枚張ったような雑な処置しか今はできない。そっと包み込みたいが、体が凝り固まって曲げることができない。
そういえば、最近身体を動かしていない。重く感じる。
6日
自分自身以外の他人に何かをさせたりだとか、強要させることは、非常に難しいことだし、慎重になる必要がある。やる気というものの扱い方は、未だ理解できていない。日が昇っているうちは、脳みそからリズムを完全に無視した不安定な音が聞こえてくる。
しかし、あたりが暗くなる頃には、テンポを踏むようになって心地のいい音が出せるようになる。大体そのことには、図書館の閉館時間が迫って人も帰り支度をし始める。
しなくてはいけないことは分かっているし、もっとためになる事をした方がいいと言われるかもしれない。それでも何かをなすということは、きっと順番があるのだ思う。
7日
ネット記事で、東京都で高校授業料の無償化を所得関係なしに進めるという記事を目にした。これはいい傾向にあると、そう希望が持てるような感覚になった。子供たちの行く道を広げ、自由を感じさせることが僕を含めた先を行く世代の役目なんだと思う。本来、国家や社会形成は、よりよく生活を過ごしこれを保護したいがために、まだマンモスと戦っていた先人らが集まったのだと勝手に想像している。それを考えれば、今の生活はずいぶんと窮屈になってしまっている。
これが、全国に拡大してほしいと強く願う。
8日
夜歩くと街は、小さな灯りが集まって幻想的なオーラを解き放っている。その色は、様々で青色や白光色の電球が木々にまとわりついて、柱や天井にも装飾をされていた。街ゆく人々は、そのフィーリングを共有し合って、通り過ぎていく。イルミネーションの芸術性は、非常に高いものがあり、僕含めてそれを見た人の心を豊かにする。
反対に、3.111東日本大震災を思い出す。全国的な電力不足が遅れてやってきた。近所のスーパーやコンビニでは、出力を抑えるため、蛍光灯が規則的に取り外されていた。家の中にいても、行政による停電が実施されたのを鮮明に覚えている。
エネルギー関連の問題は、尽きることを知らない。震災から10年以上が経過したにもかかわらず、世界各地でエネルギー不足、供給が議論の場に放り込まれている。原子力や化石燃料といったものは、これからの子供達にゴミを投げつけているのと同じだ。事故に関して言えば、責任を取ったところでその代償は、何十年何百年とその地に残り続ける。きっとその頃には、僕たちはこの世界にいないかもしれないし、そもそも責任を取るといった政府は、クルッと政権交代して問題とともにどこかに行ってしまう。結局は、これからの子供達がその負債を負うわけで、僕たちはなんと声を掛ければいいのかわからない。
とはいっても、勉強したり音楽を聴いたりこの日記を書くことでさえも、電気は必要なもので、人々の繋がりやフィーリングの可能性は、失われていたに違いない。使用者である私たちは、使用者であることを忘れてはならない。恥だと思われないように、何かを残して手渡したいと願う。
リビングの電球を2つ取り外して、物置にしまった。
9日
学生生活が3年目になるにもかかわらず、課題のレポートを締め切り1分前に提出した。焦りに焦って、3年目になっても計画性のなさに恥ずかしく思う。何をやっているんだと。内容がそれなりに面白いもので合ったから、しっかり読み込めないまま仕上げてしまって悔しく思った。論文は、後で読み直そうと決める。
しかし、安堵感の方がよっぽど強い
10日
休みの日の学校は、静かでかなり気に入っている。椅子取り合戦も発生しないし、自由な感覚を感じられる。それでもまばらに人の影が見えて、それぞれ作業をしている。今日は、高校生の姿も見えて、大学入試の時期が迫っていることを肌で感じた。
その後は、友人らと店に入る。1時間強の遅刻で歩くスピードは、だんだんと緩まっていったが、無心で扉を開けた。声を掛けてくれたことは嬉しかったし、こういった機会は、損失するには惜しいことだと思った。
色々な人や考え方が存在する中で、認め合うことはコミュニケーションの起源なのだと感じる。やっぱり、手が届く範囲くらいでの対話がやりやすい。
そして、やっぱり僕の脳みそは凍っているのだと。
ドタバタ日記 2023年12月11日