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『天晴!な日本人』 第108回 「嫋(たお)やかな鋼(はがね)の精神の人、荻野吟子(おぎのぎんこ)(1)

<壁を破った人の生い立ちから上京まで>

今から数年前に、ある大学の医学部の入学試験において、女性受験者を不当に落とすという事件がありましたが、この令和の時代、二一世紀になってまで、まだこんなことを秘密裏にやっていたのか、と呆れた記憶があります。
女性が医師になるのは今もって狭き門なのかという思いから、日本で最初の医師・開業医となった荻野吟子を紹介しましょう。

明治維新後、医師を職業とするためには、正式な政府の認可を必要とするようになりました。俗にいう国家試験ですが、当時はスーパー官庁の内務省が定めた「医術開業試験」が、医師へのパスポートでした。
ところが、このパスポートを手にするための試験の受験の門戸は、女性には閉ざされていたのです。その分厚い壁に不屈の精神で果敢に挑み、見事に破ったのが荻野吟子でした。

吟子はペリー来航の二年前の一八五一(嘉永四)年三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村むさしのくにはたらぐんたわらせむら(現在の埼玉県熊谷くまがや市俵瀬)の名主なぬしの荻野綾三郎あやさぶろうの七人兄弟の五女として生まれています。裕福な家でした。現在の熊谷市北東部に流れている利根とね川に面した地です。
利根川は時折り、大雨によって氾濫する河川でしたが、おかげで肥沃ひよくな土壌となり、農作物が豊作となる土地でもありました。

父の綾三郎は当地では知識人として知られ、子どもたちへの教育にも力を入れた人でした。吟子の兄たちは、地元で著名な儒学者の寺門静軒てらかどせいけんに師事して漢籍を習っていました。また、両親ともに歌をむ人でもあったことから、吟子には風雅ふうがを理解できるみやびな心もあったのでした。

吟子は紫式部のように、兄たちの習う漢籍を、隣室にいながら、ことごとく覚えてしまう子だったと言われています。そのうち、吟子は兄たちが教わっている部屋の片隅に座って、一緒に勉強するようになり、綾三郎は学ぶことを許したのです。
その後、吟子は寺門の開いている「両義塾りょうぎじゅく」という寺子屋に通うことになりました。吟子はここで天性の才能を発揮します。寺門は、「この子は天才かも知れぬ」と驚きました。間もなく寺門は高齢により、塾を松本万年まんねんに継承させます。

松本は秩父ちちぶ大宮郷おおみやごう(現在の秩父市)で医業のかたわら、漢学者として子弟たちに読み書きを教えていた人でした。その時、松本家には離婚して戻ってきた一人娘の荻江おぎえがいて、松本は本人が好む学問に専念させてやりたいと俵瀬に行くことにしたのです。
荻江は吟子より六歳年上で、この時は23歳でした。吟子と荻江は生涯の姉妹のような付き合いとなります。初対面の折り、吟子は目をみはっています。

荻江は男装のようにはかまを身につけ、長身で颯爽さっそうと歩く姿が鮮烈で斬新だったからです。この荻江が吟子の師になります。吟子は頭脳明晰な上に、目元にすずやかな清楚な美人でした。吟子の写真というと大半が、医師になるための試験に合格した記念に、写真館で鹿鳴館ろくめいかん用のドレスを着た姿ですが、往時の三四歳とは思えない若々しさと、凛とした美しさを感じます。現代風にメイクをすれば、そのまま女優にもなれる容姿です。

その美しさと賢さは近隣の村々に響き渡るほどで、縁談の話も多々ありました。一八六八(明治元)年、吟子は熊谷の上川上かみかわうえ村の名主である稲村弥五右衛門いなむらやごえもんの長男、貫一郎かんいちろうと結婚することになります。
吟子、満十七歳、貫一郎は一つ年上でした。花嫁姿で馬上の人となった吟子は錦絵のような美しさで、村の人々は溜息をつくばかりと言われています。

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