『天晴!な日本人』 第62回 ひたすら己の信ずる道を貫いた硬骨漢、山本権兵衛 (3)
<日露戦争に臨む山本の思惑と手腕>
1903(明治36)年は、対ロシア戦のための準備一色という観があった年になりました。
山本は戦艦8隻を核とした拡張案を第18国会で成立させています。そして、従二位に昇進しました。
この年、新造艦が続々と就役しています。
山本は、戦時大本営の設置に関する条例の改正を実現し、陸軍の参謀総長と海軍の軍令(陸軍でいう参謀のこと)部長を同等の地位にしました。
後に軍令部長は、軍令部「総」長となるのも山本の影響です。
従来、海軍軍令部は、陸軍参謀本部の下に従属していたのを対等とし、作戦の独立を高めました。
このことは、大きな功績でした。
翌1904(明治37)年1月12日、御前会議が開催されます。
御前会議とは、天皇御臨席を賜わる、最高会議のことです。
出席者は元老、所轄の大臣(その時によって異なる)、軍の最高幹部(その時によって異なる)らでした。
元老というのは、非公式な肩書きですが、絶大な力があります。この時は、伊藤、山県、大山、松方正義、井上馨が元老でした。
軍からは海相、陸相、軍令部長、参謀次長、軍令部次長が出席しています。
山本は席上、陸軍、海軍ともに、いつでも出兵の用意あり、ロシア艦隊は日本の2倍、まず東洋にいるロシア艦隊を撃破、本国からの艦隊に備える、ロシア陸軍は巨大だが、単線鉄道での輸送のため、個々に破っていく作戦、ということを述べました。
翌月、御前会議で開戦が決まると、伊藤は、すぐに腹心の金子堅太郎をアメリカに、末松謙澄をイギリスに派遣することにします。
日本が正義だという世論作りと、講和に向けての根回しのためですが、明治の政治家の偉さ、賢さが窺えます。
金子はハーバード大学出身で、セオドア・ルーズベルト大統領(テディ)と友人関係にあります。
末松は伊藤の女婿(娘の婿さん)で、伊藤門下の四天王の一人でした。
四天王の筆頭は、大日本帝国憲法、教育勅語の起草者、井上毅(大秀才!)と、次席は伊東巳代治です。
渡米前に、金子が山本を訪れています。
戦争の見込みについて尋ねるためです。
山本は、「こちらの軍艦の半分は沈没する。そのかわり、残りの半分でロシア艦隊を全滅させる」と答えています。
余談にはなりますが、この後、金子の所に、さる貴人が訪れました。
その貴人とは、なんと美子皇后(後の照憲皇太后)でした。
美子皇后は、明治天皇から、「天狗さん」と呼ばれて愛された人です。鼻筋が通っていて高いところから、この仇名をつけられたのです。
皇后は、恐懼している金子に、
「お国のために十分に尽力して欲しい。それを依頼すべく、こうして参ったのである」
と激励しに来たのでした。
ここから先は
無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?