『天晴!な日本人』 第71回 智謀湧くがごとしの辣腕実務家、児玉源太郎(4)
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しかし、現地の大将らは、乃木を除いて、みな大先輩にあたる面々で、大将になったばかりの児玉では押さえがきかないであろうという懸念があり、大人の大山巌も行くことになりました。
7月15日、大山を総司令官、児玉を総参謀長とする、満州軍事総司令部が戦地に到着しています。
旅順攻略は第1回、第2回と総攻撃で夥しい戦傷者を出すばかりでしたが、日本から巨大砲の28サンチ砲を送って陣容を整えています。サンチとは、センチのフランス語読みで、口径28センチ砲となります。
それまでは口径10サンチから15サンチで、命中しても1メートル30センチのべトンに阻まれていたのです。なにより、砲弾がないので、使いものになりませんでした。第三軍の参謀たちは、再三にわたって砲弾を下さい、と申し出ていますが却下されています。
8月19日からの第1回総攻撃では戦死傷者約1万6000名、うち戦死2300名、9月19日からの第2回では死傷者約4800名、うち戦死は109名を出しました。この時、ロシア軍は戦死616名戦傷4453名を出しています。
ロシアの最新式のマキシム式機関銃の犠牲者になることが多かったのです。少なくない書で、機関銃はロシアしか持っていなかったという記述を見ますが、事実は異なり、日本軍は256挺と、ロシアより多く仕入れていました。
11月26日には第3回総攻撃をしますが、これも失敗しています。そこで児玉が一時的に乃木の代わりに指揮を執ることになるのです。この時、攻略地を二〇三高地に変更しています。
以前から二〇三高地を攻略せよと促していましたが、児玉の登場で、やっと変更することにしたのです。標高203メートルの山であり、ここを占拠すれば旅順港も射程内でしたし、旅順要塞を見下ろしながら砲撃できます。
児玉は二〇三高地に近接する壕や坑道に、危険を顧みずに入り、偵察してきます。第三軍の参謀らを集め、現場も見ずに作戦指揮ができるか!と叱責、28サンチ砲を急拠、移動させました。
12月4日から攻撃開始ですが、それまでとは違って、ふんだんに砲弾を使っています。
12月4日の朝から30時間で2300発もの28サンチ砲の砲弾を撃ちました。500トンになります。
28サンチ砲の威力は抜群で、堡塁を破壊していき、その後は歩兵の突撃です。12月6日、ついに陥落させましたが、名参謀の児玉を以ってしても死傷者は約6200名にもなり、乃木が無能とは言えません。
二〇三高地占拠後、旅順要塞と旅順港を砲撃し、要塞を落とし、港内の艦隊を沈めています。旅順は155日間で落ちたのです。
参加した日本軍は延べ12万名、戦死約1万4000名、戦傷約4万6000名でした。ロシア軍は死者約5000名、戦傷約2万名あまりです。1905(明治38)年1月1日、ステッセル中将が降伏し、5日に乃木大将と水師営で会見しています。
2月末になり、日露戦争の天王山とも言える奉天の大会戦となりました。ロシア軍36万名、日本軍25万名、それまでの歴史上、最大の会戦です。大会戦は3月10日、日本軍の勝利で終わりました。以後、3月10日が陸軍記念日となったのです。
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