『天晴!な日本人』 第104回 徳富蘇峰(2) 「知に目覚めた蘇峰」
<開化啓蒙を志した蘇峰>
蘇峰が「花岡山盟約」に参加したのは、最年少ということもあり、周囲の年長の学生たちの空気に賛同したこともありました。
それ以外に西洋の教えを広め、民衆を文明開化しようという目的があったのです。
この花岡山盟約によって洋学校は八月に廃校になりました。蘇峰は父母と相談して上京しています。
東京には両親ともに親戚がいて、蘇峰は母久子の姉の婚家である藤島家に下宿し、東京英語学校(のち、一高。旧制高校)に入学しました。
一高は、そのまま東大に入るような超エリートの集まる旧制高校で、現在の大学生、東大生でも問題にならないほど、レベルが高かったのです。
当時、東京の学校といえば、真っ先に諭吉の慶應義塾となりますが、蘇峰は「福澤流は虫が好かなかった」として、行かなかったのでした。
ですが二ヵ月でやめて、京都に向かいました。これは「花岡山盟約」の先輩同志の金森通倫(一八五七年~一九四五年)らが、同志社に入学していたからです。
ここで新島襄(一八四三年~一八九〇年)と出会い、一八七六(明治九)年一二月に洗礼を受けています。
蘇峰は、終生、父、勝海舟、新島の三人を師としています。
洗礼を受けたのは、キリスト教よりも、新島の人柄に引かれたからでした。
新島はこの時に三三歳、蘇峰より二〇歳、年長でした。
新島は若き日に箱館(のち函館)から密航して渡米し、プロテスタントの一派の組合教会(会衆派教会)系のアマースト大学を卒業して帰国し、苦労の末に官許の同士社英学校(現在の同志社大学)を設立しています。
その翌年に蘇峰が入学してきたのです。
新島の協力者に盲目ながら、才能を評価されて京都府顧問に迎えられた山本覚馬がいて、その妹の八重子が妻となりました。
覚馬は戊辰戦争時、政府の敵の会津の人で、一旦は政府軍に捕まりますが、その識見と人柄を買われて顧問になったのでした。
妹の八重子は戦争時、会津の女として銃をとって戦った女傑として名を残していますが、蘇峰とは合わなかったようです。
蘇峰が同志社に在学したのは一八七六(明治九)年一〇月から一八八〇(明治一三)年五月までの三年半でした。この間、クリスチャンとして熱心に布教活動をしています。
こうした中、同志社では学生たちの間に対立・紛争が起こりました。
道徳を強調するバイブルクラスと、知識が道徳に対して優位というグループの内紛でした。
蘇峰は後者でしたが、前者には熊本バンドの先輩も多く、教える側の宣教師たちの傲慢な態度もあって、蘇峰は退学することにしたのです。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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