『天晴!な日本人』 第56回 無垢(むく)なる勤王(きんのう)の武人、広瀬武夫(ひろせたけお) (1)
<管理人よりお知らせ>
祝日の関係で、来週の投稿は(月)天晴!な日本人 (火)フィスト・ダンス (水)美達さんからの返信 になります。皆さま、よろしくお願い致します。
<広瀬武夫とは?>
皆さんは、広瀬武夫という名前を知っていますか?
広瀬は、日露戦争緒戦で、ロシアの艦隊の根拠地港である旅順港の湾口閉塞作戦に殉じ、「軍神」とされた帝国海軍の将校です。
軍神というのは、顕著な功績のあった軍人に与える称号で、特に基準はなく、その時々の戦術・戦場の状況によって冠されるものです。
戦意昂揚や国民世論の一致を目指すものでもあり、当人と親族、当人の郷土によっては大変な栄誉でした。
初めに海軍の広瀬が軍神にされると、帝国陸軍でも、日露の戦役で戦死した将校を軍神としています。
1937(昭和12)年の支那事変では、陸軍の「肉弾三勇士」が軍神になり、大東亜戦争の真珠湾攻撃では、爆雷を積んだ5隻の特殊潜航艇に乗って敵地に突入した10人のうち、9人が軍神に列せられました。残りの1人は生き残って捕虜となった後、戦後は復員してビジネスマンになっています。
戦時中は、祖国の英雄、郷土の英雄として、嵐のごとく賞讃を浴びますが、敗戦後は掌を返したように国賊視されたのです。
この日本人のご都合主義、一貫性のなさは、人として恥とするところですが、この傾向は直らないでしょう。
その人個人の名誉や功績より、世間の空気に同調することを優先する生き方は、卑劣、卑怯と知り、皆さんは拒否して下さい。
今回は、この軍神、広瀬武夫を紹介します。
生まれたのは、1868(慶応4)年5月27日ですが、この年の9月に明治元年と改元されました。
生まれた地は、豊後の竹田、現在の大分県でした。
父の重武は岡藩の藩士で、過激な勤王の志士です。
しかし、藩主が佐幕派(親幕府)だったので、重武は弾圧に遭い、禁錮の処分になっています。これが1862(文久2)年から3年間続きました。
この年には、薩摩藩が過激な尊王攘夷の志士らを斬殺した「寺田屋騒動」がありました。京の町を震えあがらせた新選組が登場するのは翌年のことになります。
尊王の志士にも、ただ弁舌だけ巧な口舌の徒、ただの煽動家、至純の実践者と、いろいろいますが、重武は実践者でした。
それには、この家門の名誉がかかわっていました。
広瀬の家系は、菊池の子孫という、由緒ある家門だったのです。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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