『天晴!な日本人』 第90回 「不屈の精神を持った無私無欲の仁人、田中正造」(2) 「苦境に陥(おちい)った正造」
<正造の受難期>
名主たちは幕府の老中に訴えることには成功しましたが、前述の通り、幕府はそれどころではありませんでした。六角家騒動は六年にも渡り、業を煮やした正造は、それまで以上に頑強な策の一つとして、林一派を厳しく糾弾する書状を六角家本家の烏丸家に出しました。
しかし、これが林一派の手に入ってしまい、正造は江戸屋敷の牢に囚われてしまいます。牢といっても縦、横、高さ三尺(約九一センチ)の四角い牢で体を伸ばすこともできず、用便は牢の下に掘ってある穴ですませるものでした。
取り調べは酷烈なもので正造の背を乱打する拷問が続きました。正造は毒殺されるのを危惧して、牢で出される食事を断ち、最初の三〇日間は友人が差し入れてくれたたった2本の鰹節で凌いだのです。その後も差し入れで生き延びています。
こんな状態で一〇カ月も頑張ったのでした。体を伸ばすこともならず、ろくに食べることもできない一〇カ月は、どんなに辛かったでしょうか。
騒動は明治政府の役人によって解決が図られました。喧嘩両成敗で六角家当主は「隠居」、林は「永の暇(クビ)」、正造は「一家領内追放」です。
追放であっても村内の人々は正造の活躍を知っていたので、正造だけは領外、他の家族は、そのまま小中村に住み続けています。正造が村の中を歩いても、皆、知らんぷりをしてくれました。この時、名前を兼三郎から正造に改めています。
正造は騒動を収めるための活動で作った借金を返しながら、寺子屋を開いて、子どもたちを教育しました。
一八六九(明治二)年八月、正造が知人の勧めで上京後、同郷出身者の求めで、江刺県(現在の秋田県の一部)に役人として赴任しています。任地は秋田県境の鹿角です。
前年来の凶作で、村々は食料が尽き、牛馬を殺して食べる他、稗、草の根、糠に塩を入れた粥で命をつないでいました。正造は緊急に五〇〇俵の米を取り寄せて救済しています。
治安の乱れが懸念されていた中、支庁舎にて、上司の木村新八郎が何者かに刀で斬られ、駆けつけた正造が迅速に捜査をするものの、犯人はわからずじまいでした。
その四カ月後、正造は木村を介抱した際、袴や足袋に血がついたことを疑われて、捕まることになったのです。獄に入れられて、「白状せよ」と笞で拷問されました。一八七一(明治四)年六月一〇日のことでした。
全く身に覚えのないことでしたが、翌年春には盛岡監獄に移されています。
一八七二(明治五)年一一月、『監獄則』が制定され、獄内に畳が敷かれ、正造は、「一夜の間に地獄変わりて極楽」と語っていました。
読書も許され、正造は翻訳書で政治・経済を学んだ他、大ベストセラーとして一世を風靡したサミュエル・スマイルズの『西国立志編』(中村敬宇訳)を貪るように読んでいます。
この書は原書のタイトルを『セルフ・ヘルプ』といって、訳した中村敬宇は本名を中村正直といい、福澤諭吉と、日本初の学術文化団体の『明六社』を設立、『明六雑誌』を発行して自由思想の啓蒙に務めています。
一八七四(明治七)年四月、行方がわからなかった木村の子息の証言で無罪放免となりました。
正造は、『監獄則』によって、獄中生活が一変したことへの感動もあり、近代思想を積極的に学ぶようになっています。そうしてヨーロッパの政治や議会制度、経済についての知識を吸収していったのでした。
特に時代のオピニオン・リーダーの福澤諭吉に心酔し、その著書を読むだけでは足らず、演説会に出かける他、諭吉宅を訪問して話をしています。
正造は、自伝の他に、度々、自分のことを「無知、無学」「愚鈍」と称している他、知識人を、「学士は、みな書冊の奴隷たり」と罵倒していますが、本心は学問、知識を尊いものとして勉強を重ねた人でした。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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