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『天晴!な日本人』 第109回 荻野吟子(2) 「日本の歴史の中の女医たち」

<苦学力行>

永井は吟子ぎんこに医学界で力のある石黒忠悳いしぐろただのり子爵ししゃくを紹介してくれたのです。この時の石黒は大学東校とうこう(東京大学医学部の前身)の総長でもあり、もともと帝国陸軍の軍医総監という最高の地位にいた人物でした。森鷗外おうがいも石黒の部下で、のちに軍医総監になっています。
石黒は女医になりたいという吟子に即座に賛意を示し、大学に入学の可否を問い合わせてくれましたが、前例がないというので許可されませんでした。
そこで吟子は宮内省の侍医(皇室の医師)だった高階経徳たかしなつねのりが経営していた、私立の医学校の「好寿院こうじゅいん」に特別に入学を許されることになったのです。

好寿院には二〇歳前後から四〇歳前後までの男子学生が通っていましたが、女子学生は吟子一人だけで、トイレすら男子用しかありませんでした。
男子学生の好奇な目だけではなく、「女なんぞの来る所ではない」「帰れ」などの罵声も飛び交う中、吟子は髪を短く切り、男のはかまに高下駄という身形みなりで通学しています。
どんなに心細かったであろうか、気の毒です。彼らは連日のように「女人禁制」と、吟子を排除しようとしますが、吟子は忍び、耐え続けました。この男たち、弱きをいたわ惻隠そくいんの情、武士道の心は持っていなかったようで、なんとも情けない連中です。
吟子は、ここでくじけたなら、多くの女性を救えなくなる、と己を鼓舞して授業を受けました。座る席も最前列で、よけいな雑音や干渉は無視しています。

さらに吟子にとって困ったことは、学費と生活費の手当てでした。
医師の道を目指すということを告げた母は賛同してくれず、仕送りも止まっていたのです。かくなる上は初志を成就させるために、自らのか細き腕で稼がねばなりません。
学校の勉強に費やす時間も少なくないので。稼ぐと言っても大変なことでした。幸い、出自と評価の高さもあり、方々の良家、富裕な家の家庭教師の口があり、授業のない時間は多忙を極めることになったのです。
海軍将官、農商務省官僚の家庭の他に、豪商の高島嘉右衛門たかしまかえもんの子どもの家庭教師も引き受けて、目の回るような忙しさの日々を送っています。

高島は後に「高島易断えきだん」で有名になりましたが、事業家としての手腕にも卓越したところを見せた人物です。政府にも顔がき、鉄道やガス事業、横浜の発展に大きく貢献し、西区高島町に名を残し、「横浜の父」とも呼ばれた傑物けつぶつでした。
政府高官や省庁官僚には、新事業、政策がうまくいくかどうか、再々、高島におうかがいを立てる人も少なくありませんでしたが、ほとんどは高島の易での占い通りになったという伝説が残されています。

さて、家庭教師をすることになった吟子ですが、それらの家々を回る道のりは何キロにもなったそうです。それを雨の日も休むことなく続けて、勉強にも身を入れました。
人間の意志の強さは、志の深さによって支えられます。吟子の思いの深さ、立派です。ー八八二(明治一五)年、三年間の辛い時を経て、吟子は好寿院を卒業しました。
しかし本当の試練はそれからでした。吟子にとっての試練は、医師免許規則による試験に合格する以前に、女性の受験を認めてもらうところにあったのです。

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