見出し画像

『天晴!な日本人』第47回 剛毅朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近しを体現した秋山好古(よしふる)大将(8)

ある戦いの時には、好古の隊がいよいよ窮地となると、奥大将は自分の最後の守備隊全部を援軍に差し向けています。
好古と同期の参謀長の落合おちあい豊三郎少将が、それでは裸になってまずいです、と進言しても、「かまわん」と言い放った上でのことでした。
自分を守ることさえ一顧だにしない奥大将、まさに胆斗たんとごとしの古武士と言えます。
また、そこまでして援軍を出させた好古が、いかに信を置かれ大事にされていたかが伝わってくるでしょう。途中で好古の旅団を増強してやったのも奥大将の配慮でした。

日本軍は各地の闘いで連戦連勝を重ねていきますが、日清戦争の時とは違って、苦戦の後にロシア軍を退却させています。
ロシアには古来から現在におけるまで、兵力の絶対的優勢を以ってして破るという伝統があるのですが、劣勢にあるともろいのです。
この自軍優勢ドクトリン、基本は敵の5倍以上の兵力が望ましいというくらいで、ロシア人、意外と用心深いというか臆病でした。
自軍が少なくてもやっちゃえというのは、日本の一つの特徴とも言えます。

日露戦争ではロシアの自軍優勢ドクトリン、それが随所で現れました。
そこで踏ん張り、もう一押し、二押しすれば勝てるのに、自ら諦めて撤退する場面がロシア軍にはあまりにも多かったのです。これは指揮官の能力もあったことに加えて、精神、魂の日露の差でした。

それ以外にも大きかったのは、日本は予備兵力もなく、一戦一戦が負けられない戦いであったのに対し、ロシアは、開通、間もないシベリア鉄道でいくらでも援軍を送れるので、退却イコール負けではなく、次があるさ、だから被害を少なくしておこう、という意識が安易な退却になり、それが重なるうちに士気の衰えにつながりました。
逆に日本は、初めから短期決戦で講和に持ち込むのだと、戦略が明確でした。

加えて、ロシア軍総司令官のクロパトキンが臆病だったこともありました。自身が想定していたよりはるかに精強な日本軍に対して、過剰に恐怖感と警戒を持ってしまったのです。
クロパトキンは頭脳明晰めいせき・完璧主義者の、「軍人というより官僚肌」の人ゆえ、一度、脳髄に染み込んだ日本軍の強さは、容易に払拭できず、途中からは第一軍司令官への降格も噂され、古兵ふるつわもののグリッペンベルク将軍が第二軍司令官になった後は、戦術において議論が争論となるほど、統帥とうすいに乱れが出るようになりました。

<無私無欲、命も要らぬ旅団長閣下>

好古は開戦参加6カ月目の9月、さらに旅団を増強してもらっています。奥大将より、歩兵第九連隊に合わせ、騎兵第四連隊の一個中隊、工兵の一小隊を加え、「秋山支隊」と命名されました。
好古の意向に沿った編成でした。このタイミングは、大決戦となった「遼陽りょうようの会戦」の勝利後です。
遼陽は、奉天ほうてんに次ぐ、人口10万人の大都市であり、東清とうしん鉄道が南北に走る交通の要衝、ロシア軍の軍都でもありました。

この会戦にロシア軍は歩兵212大隊、騎兵156中隊、砲624門で22万5000人、対する日本軍は歩兵156大隊、騎兵45中隊、砲500門で13万5000人を注ぎ込んでいました。
7日間に及ぶ大激戦の末、日本軍の戦死傷者は2万3000人、ロシア軍は2万人強でした。
ここでも、日本軍の弾薬・砲弾がなくなり、追撃を断念しています。好古は相変わらず最前線に出て、馬上で水筒の酒を飲みながら、将兵を激励し続けました。

遼陽の勝利が決まると、袁世凱えんせいがいからお祝いの酒が4ダースも届けられています。シャンパン、ワイン、ウィスキー、ブランデーが入っていましたが、好古はブランデーを1本だけ自分用に残し、あとは部下の各隊長らに分配しました。
当番兵と副官は、もう何本か残しておきましょうと言いたいところでしたが、好古の気性を知っているので、仕方なしや、でした。この戦争では、好古の水筒の酒は、主として入手しやすい支那酒になっていますが、文句、不平はありません。
それにしても、袁の「秋山将軍」を畏敬する思いが本物だったことに驚かされます。権謀術数、謀略の権化ごんげの袁が、至誠一筋の好古を尊敬していた事実に、「至誠は天に通ず」を見る思いでした。

ここから先は

3,159字
書評、偉人伝、小説、時事解説、コメント返信などを週に6本投稿します。面白く、タメになるものをお届けすべく、張り切って書いています。

書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?