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「天晴!な日本人」 第20回 「一陣の風の如き爽やかな快男児!桐野利秋」(3)

<市来の桐野評>


桐野きりの廉潔れんけつ剛胆、百折不撓ひゃくせつふとうの人というべし。最も仁慈心あり、文識はなはだとほし、みずから文盲をとなう。しかりといえども、実務上すこぶる思慮深遠、有識者にまされり。世人これを武断の人というといえども、その深きを知らざるなり、六年の冬桂冠けいかん帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、ついに立憲の政体に改革し、民権を弘張こうちょうせんことを冀望きぼうするもっともせつなり」

これが久光ひさみつの側近である市来四郎いちきしろうの桐野評です。久光は藩主の忠義ただよしの父であり、幕末には大久保、西郷の御輿みこし、倒幕派のドンとして君臨したものの、維新後は版籍奉還はんせきほうかんの上、廃藩置県までされ、自分は将軍にもさせてもらえなかったとして、生涯、大久保、西郷を恨み、嫌い、憎悪していた人です。
側近の市来も大久保、西郷を憎む心は同じで、西郷一派に対しても評価は厳しいものとなっていました。試しに市来による西郷の人物評を添えてみます。

「性質粗暴、利財にうとく、事業をとるたんなり。つねに少年と交わり、粗暴を談じ、礼譲れいじょうの交わりなく、ひとたび憎視するときは積年孤思こしして、容慮なく大量濶度たいりょうかつどというべからず」

事業を執に短なり、というのは、飽きっぽく続かない、ということです。礼譲の交わりなくは、礼を尽くして交わることなく、礼儀がないことで、一度、人を嫌う、憎むと、ずっと執着して赦すことなく、度量が大きいとは言えない、と厳しいものです。ただし、一方で、

「じつに稀世(きせい)の人物というも誣言(ふげん)にあらず」

世にも稀な人物と言っても嘘ではないとしています。

桐野につき、市来は、欲がなく、心や行ないがきれいだ、清廉潔白の人、困難に遭ってもくじけず折れず、他者への慈悲の心、じんがあると語っていました。

学問はなく、自ら無学を唱えるが、実務をれば非常に深いところまで考え巡らし実行するので有識者たちより優れている、世の人は彼を「」の人というが、その深さ、能力のあることを知らない、明治6年の辞職後は帰郷し、国を救わねばと懸念の日を送るも、皇室の権威が衰えない策を講じて、国民の民度を上げ文明の国とし、政治は立憲政体として人々の権利・人権を拡大することをこい願うもの、と桐野の人柄、思想について論評していますが、桐野が、いかに好漢であったかを物語るものでした。

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