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『天晴!な日本人』 第98回 「武士道精神を以って、キリスト教に殉じた至誠の女性、山室機恵子(4) 「命がけの奉仕」
<動乱の明治三九年、四十年>
ロンドンでブースと会談した軍平は、その情熱と誠実さを認められて、日本の伝道部長(戦場書記官)という枢要な地位を任されました。
帰国した翌年の一九〇五(明治三八)年、稀に見る凶作となり、東北地方では娘を買うために女衒(娼妓買い)が入り、僅かな金で娘たちを買い漁り、奴隷的な工場や遊廓に売る事例が急増しています。救世軍では、直ちに、「東北凶作地子女救護運動」を始めました。
東北地方で女衒の手に落ちるおそれのある娘たちを探して東京で就職させるようにしたのです。救世軍には、職業紹介事業の起源ともいうべき、職業紹介部がありました。
このため、救世軍では娘たちの住居として寄宿舎を設け、機恵子はその主任に任命されています。一九〇六(明治三九)年の上半期だけで一五六人を保護し、内務省も協力したので、地方の官庁も便宜を図っています。また、日本鉄道会社は乗車賃を三割引としました。
この他に救世軍は東北で五〇〇戸の極貧世帯に対して資金や道具の補助をするなど生活扶助も行っています。こうして寄宿舎に収容された娘たちに、行儀作法を教え、身形を整えてやるのは機恵子の仕事でした。娘たちは一定の期間を経た後、就職しますが、大事にされたようです。
『毎日新聞』社長であり、衆議院議員の島田三郎は、「この度の凶作地救済には、種々なる運動もあったが、最も少額の金をもって、最も有効なる事業を為したものは救世軍である」と評価しています。
この年、次男の襄次が生後七カ月でなくなりました。機恵子が多忙を極めている中、百日咳から肺炎になり、急死したのです。軍平・機恵子夫妻は、自分らの無知の為に我が子を苦しめたことを神に懺悔する、と心の内を記しています。
以来、機恵子は子どもたちの健康に一層注意を払うようになり、雨天に日曜学校に通わせる際は風邪をひかせないように人力車に乗せるようになりました。子どもを人力車に乗せるのか、という非難には、薬代より人力車代は安く、子どもは万難を排して神を礼拝し、教えを学ぶべきです、と応じています。
またこの年の末に、地方出身の女学生のための女学生寄宿舎を新設し、これもまた機恵子が主任となり、一家で入居することになりました。女学生への教導は、機恵子にとって得意分野です。この教導の間、少なくない女学生がキリスト教に入信しています。
さらに、この年末から救世軍では、貧窮して食べることさえままならない人々に対して餅や食物を入れた「慰問籠」を配っています。同じ頃、軍平は『救世軍創立者ブース大将伝』を上梓して、好評を得る他、次女の友子が誕生しました。貧しい人、弱い人の友となるように、友子と命名されています。
翌一九〇七(明治四〇)年四月、創立者のウイリアム・ブースが来日し、五月末に離日するまで、日本の各地で説教講演を行いました。明治天皇にも拝謁しましたが、天皇も感銘を受けられたそうです。
各地での講演の通訳は軍平でした。共に全国を回る中で、ブースは軍平のことを、「精霊に満たされた人物」として信任し、書記長官という、日本で第二の地位に任じたのです。軍平、満三五歳の時でした。
この間、機恵子は東京で軍平の代わりに、あらゆる職務に邁進しています。この激務が、職務と家庭の両方を担う機恵子の健康を蝕んでいきました。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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