『天晴!な日本人』 第100回 直情径行、野性のままの火の玉の女 松井須磨子(2) 「女優への道に踏み出す」
<演劇研究所での須磨子>
文芸協会演劇研究所は、坪内逍遥が、弟子の島村抱月と、一九〇九(明治四二)年に創立しました。
逍遥といえばシェークスピア全作品の完訳者であり、評論の『小説神髄』、小説の『当世書生気質』を世に出した大作家です。
この人のシェークスピアの講義は当代随一とも賞賛されていました。
抱月については、須磨子の愛人となる人なので後述します。
文芸協会自体は、イギリス留学から帰国した抱月が、一九〇六(明治三九)年に新しい日本の演劇を創ろうと、大隈重信を会頭として発足させた団体でした。逍遥は会長になってくれと要請されたのを断り、最高顧問となっています。
そうして演劇を公開するうちに、本格的な俳優を養成しなければならないとして、一九〇九(明治四二)年に逍遥が中心となって演劇研究所を設立したのです。
須磨子が受験申込書を持って行ったのは同年四月のことでした。
須磨子には特に秀でたものはありませんでしたが、逍遥に「たくましい体躯を採るのみ」と、体格の良さと健康を買われてやっと合格したのです。
演劇研究所は二年が終了年限で、一般からの志望者は、容姿、学力、音声(声のこと)、天稟(演技力のこと)、健康、操行などの資格について試験を受けます。
操行とは、品性高く志操堅固な者、ということです。
第一期は女性三人、男性九人の一二人という狭き門でした。
女性では須磨子の他に、三田千枝子(のちの山川浦路、五十嵐芳野がいました。
当初は普通の借家の一軒家で授業をしましたが、同年九月に逍遥邸内に新校舎ができて移っています。
そこには四間(約七・二メートル)に二間半(約四・五メートル)の舞台まで作られました。生徒数は年末までに二二人になっています。
演劇研究所での講師と講義内容は次の通りです。
逍遥は、朗読法、実演、実際心理学、シェークスピアの『ハムレット』の実習、抱月は英語対話、イプセンの『人形の家』の実習を担当していました。
その他には著名な劇作家の伊原青々園の日本演劇史、金子筑水の芸術哲学があります。
日本舞踊、立ちまわり、狂言、謡曲も習うようになっていました。
逍遥の方針で演劇研究所の中には厳しい規律があり、男女間にも距離があったようです。
演劇研究所には「法三章」と呼ばれている掟がありました。
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