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『天晴!な日本人』 第106回 徳富蘇峰(4) 「政界のご意見番への道程」

主張を転換した蘇峰は、大隈おおくまの改進党こそが中間層を中心とした中等社会の代表勢力になるとしました。
ですが、大隈へのテロで、この考えは挫折しています。

一八九〇(明治二三)年五月、蘇峰は「進歩党連合」というキャッチフレーズで、民党結集を訴えるキャンペーンを始めたのです。
『国民の友』、三カ月前に創刊した『国民新聞』を使ってのことでしたが、蘇峰自身も各党に足を運んでいます。
ジャーナリストと活動家を兼ねていたのです。
結果、旧自由党系の愛国公党・大同倶楽部クラブ・再興自由党と、九州同志会(のち九州改進党に改名)の四つが連合することになりました。蘇峰期待の改進党は加わりませんでした。そうして立憲自由党結成になります。

初の総選挙(衆議院議員選挙のことを、こう呼ぶので覚えておいて下さい)では、有権者が直接国税一五円以上の納付者で、該当者の九八パーセントまでが地租によるもので、所得税によるものは二パーセントのみでした。
農商工による中等社会になるのは、まだまだ時間がかかることが予期できました。

スタートした議会は、民党対吏党りとう(親・政府の政党)という対立構図で、現在以上に民党にとって政府(内閣)は敵でした。蘇峰は一貫して民党を支持・応援しています。
この頃の蘇峰は強力なジャーナリストとなっています。
蘇峰は絶えず、「頑張れ、民党。実現せよ、平民主義の中等社会」と、雑誌と新聞であおり立てていました。

蘇峰の宿題は改進党を中心とした民党の連合による中等社会の実現、旧来の藩閥政治の打倒です。
つまり、「反政府」でした。
一八九二(明治二五)年の末には、伊藤内閣の外相に就任したのが、カミソリ陸奥宗光むつむねみつ(一八四四年~一八九七年)だったので、板垣を追い出して自由党の領袖りょうしゅうとなっていた星亨ほしとおるを取り込みにかかりました。

星亨は、別名を「押し通る」と言われるほど、強引で権力的な人でしたが、若かりし頃、陸奥に引き立てられて栄進したので、陸奥の門下生の一人でもありました。
この門下生で他に有名な人に、原敬はらたかし(のちの平民宰相)がいます。
星は、貧しいだけではなく、母親が病気持ち、父親が貧しさで逃げ出し、姉は娼妓しょうぎに身売り、という悲惨な境遇からし上がった人でした。
刻苦こっく勉励し、陸奥の引きでイギリスにも留学し、日本人初めての法廷弁護士バリスターの資格を取って、のち、政界に進出、板垣から自由党を乗っ取りました。
傲岸不遜ごうがんふそんの人で、選挙の時、有権者に、「この星が候補者となった地域の皆さんは幸せものだ。私を選べるのだから」と演説しています。
最後は暗殺されましたが、首相になってもおかしくない人物でした。
陸奥との関係もあり、星が政府に接近して改進党攻撃をするようになると、すかさず蘇峰は星批判をしています。星も自由党の機関誌『自由』で応酬して互いに譲らない状況が続きました。

この時の最大の政治課題は、条約改正での「内地雑居問題」でした。
外国人が従来の限定された居留地だけではなく、日本中を自由に行き来できるようになることで、日本の商業・産業が打撃を受ける、安価な中国人労働者(苦力クーリー)が国内に流入する危機感により、改正反対が叫ばれていたのです。
蘇峰はこれに対して、脅威ではないと力説していましたが、一八九四(明治二七)一月、それまでの主張を転換して、反対派、反政府派に歩調を合わせました。目的は藩閥の伊藤内閣の打倒です。
が、これは変節ではなく、目的はぶれてないので戦術の転換でした。
目的、目指すところが不変であれば、手段、戦術は変わってもいいのです。
ここが、ただ頭の硬い頑固者か、芯はあれども思考は柔軟な戦術家の違いとなります。

議会は解散、総選挙となり、蘇峰は民党を熱烈に支援しましたが、結果は政府寄りとなった星の自由党の勝利でした。
ここで、藩閥打破による平民主義、中等社会の実現という主張は、蘇峰の胸奥とは逆の対外強硬派になってしまったのです。
これも、蘇峰を擁護すれば、大目的は不変なので、小異は捨てるということで致し方ないでしょう。
私は公正公平、フェアが第一なので、このように見ていますが、正しい見方です。いつも書くように、政治に100%はありません。

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