『天晴!な日本人』 第110回 荻野吟子(3) 「叩けよ、さらば開かれん!」
<歴史に残った女医たち>
その転機とは、歴史上に女医の前例を見つけたことでした。資料によって異なりますが、吟子自身が見つけた、高島が見つけた、あるいは旧師の井上頼國とされています。
養老年間(七一七~八三三)に編纂された『令義解』に、官戸の婢で性識慧良なるもの三〇人を選抜し、医学知識を教え、修得した者は、内侍所の傍らに設けられた一室で、出産、創傷・病気の治療、灸などをしていたという史実でした。
『令義解』巻第八に「医疾令」があり、その中に「女医」という文字が記されていたのです。官戸の婢とは、宮内省の官奴司に属した御料田の身分の低い女性のことで、一五歳から二五歳までの賢い子を選んで、医学知識を習得させた上で助産師、看護師、鍼灸師を兼ねさせたということでした。修養年限は七年とされていました。
内侍所とは、天皇の側に仕える女官たちのいる所で、賢所(温明殿)の中にありました。賢所には、天皇の証である三種の神器のうちの、八咫鏡を祀ってあります。
吟子が見つけた事蹟は『令義解』でしたが、日本の歴史を具に見れば、神代の昔から、女医が存在していたことがわかります。
『古事記』神代の巻には大国主命が大火傷をして死んでしまった時に、母神の嘆きによって高天が原の神産巣日之命が、蚶貝比売と蛤貝比売を出雲の国に派遣して大国主命を治療して蘇生させた逸話がありました。
大国主命は出雲大社の主神です。蚶貝は赤貝、蛤貝は蛤のことです。
時代を下れば、『続日本紀』の巻第九に、女医を養成するための女医博士がいたことが記されています。ただ、性別は不明ですが。それでも、古代に女医を養成していた事実は否定できません。
女医博士は女性天皇の元正天皇の時、八二二(養老六)年に置かれたもので、一〇〇〇年も前のことでした。
さらに時を下れば、江戸時代に「婉子の糸脈」という異称を持った女傑の女医がいました。
本名を野中婉子といい、藩内の内紛で五歳から四〇年もの間、流刑にされた後、赦免されて郷里の高知で医者となった人です。患者が武士だと顔も見せず、その武士の手首に糸をくくりつけ、襖の向こうから脈をとって病気を当てたと言われています。生涯、独身を通し、振袖姿で暮らしていました。
同時代に女医として働いた人の中に、渡会園女がいます。女医としてよりも芭蕉の弟子、俳人として名を残した女性です。
元禄四俳女の一人でもあります。神官の娘でしたが、眼科医の斯波一有の妻となりました。夫の死後、江戸に住み、眼科医と俳諧の道で活躍しています。晩年は尼になりました。『菊の塵』『鶴の杖』という句集も残しています。
文政年間(一八一八~一八三〇)には、女医として初めて著書を残した森崎保佑がいました。師匠の子息との共著ですが、『産科指南』乾坤二巻を出版しています。彼女の弟子には多くの男性がいて、これも初めてのことでした。
天保年間(一八三〇~一八四四)以降では、大阪に赤松たい子、京都に疋田千益、播磨(現在の兵庫県南西部)の松岡小けん(通称、小鶴)、シーボルトの娘の楠本いね、などがいました。いねは、明治に入り、皇室の権典侍の葉室光子の妊娠とともに宮内省御用掛に任じられています。
この時代の医師は漢方医二万七五二七人、西洋医五千一二三人(明治七年)であり、そのうち女医は、いねと、もう一人、計二人しかいませんでした。いねの生涯も興味深いもので、一九〇二(明治三六)年八月、東京の麻布狸穴で不帰の人となっています。享年七七でした。
ここから先は
無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?