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『天晴!な日本人』第36回 小さな巨人、徹底した日本の国益至上主義の人、小村寿太郎(3)
<お知らせ>
緊急で、レビューは7月初めになりますが、『安倍晋三元総理追悼論』(高木書房)を是非、読んで下さい。
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深田匠
高木書房
現在までの最高の書であり、これ以上の内容の書は、たぶん出ません。
著者の情熱と誠実さと公正さも卓越しています。
一家に一冊、友人・知人にも配って下さい!!
<本文>
開戦後、占領した満州の民政長官に命じられています。ここで日本軍に厳正な規律の遵守を促し、外国人からも高い評価を得ました。
小村が帰国すると明治天皇に召されています。この時、陸奥は小村に、満州の重要性を強調するなと含めています。遼東半島をいずれは捨てなければならないかも、という達見からでした。この達見は的中しています。
しかし小村は将来有望と熱弁しました。陸奥が後ろから服の裾を引っ張ってもやめず、拝謁後、「陛下の前で緊張して、つい、ご注意を忘れました」としれっと言ったのです。陸奥は笑って咎めませんでした。その心意気を気に入ったのでしょう。この後、政務局長となります。
政務局長の使命は、日清戦争後の講和における外交全般ですが、小村は腸チフスで入院しました。この時、容貌が、すっかり変わってしまったのです。それでも休むことは許されず、駐朝鮮日本公使として赴任します。
この時、朝鮮王室の妃の閔妃暗殺に日本人が関与していたのではないかという時で、事態収拾のために敏腕の小村が派遣されたのです。収拾後、外務省トップの次官となります。
この間、まずイギリスと「日英通商航海条約」が調印され、5年後の1899(明治32)年に領事裁判権の廃止となりました。これは治外法権のことで、外国人を日本の法で裁けなかったということです。
廃止により、日本の法で裁けるようになった他、関税の一部の自主権が認められるようになります。完全回復となるのは、日露戦争の数年後です。
また1897(明治30)年8月24日には陸奥が永眠しました。享年53歳でした。翌年、9月13日、小村は駐米公使となります。18年ぶりのアメリカでした。
小村は日米間に大きな問題もなかったので読書とフランス語習得に励んでいます。1900(明治33)年2月22日、今度は駐露公使(スウェーデン公使兼任)でロシアに赴任しました。
この時、清では前年から義和団と呼ばれる武術集団が、「扶清滅洋」、清を扶けて西洋を滅ぼすというスローガンを掲げて、外国人宣教師を殺害・襲撃、教会を破壊し始めていたのです。
各地で蜂起となり、清国政府も1900(明治33)年6月21日、列強に宣戦布告します。政府の真の実力者の西太后(1835~1908)が調子に乗って布告したものの、本人は、さっさと西安に脱出しています。
西太后は、もともと皇帝の咸豊帝の第二夫人でしたが、次の同治帝を生んだこともあり、実権を握ったエゴイストです。
この人の目的は、ただただ贅沢に暮らしたいというだけで、為政者としては失格ですが、気に入らない高官をすぐに処刑してしまうので、わがままが通っていたのです。
同治帝の死後、甥っ子の光緒帝を即位させましたが、開明的政治を始めると即刻、幽閉し、最後は殺しています。
光緒帝は日本に留学経験のある康有為ら、若手の官僚をどしどし抜擢し、近代的政治を目指したものの、西太后に嫌われ、「戊戌の変法」は約100日で潰されたのでした。
西太后は古来からの医学・漢方を総動員し、70歳近くになっても白髪がなかった女性とされています。前にも書きましたが、汽車など文明的な物が大嫌いで、誕生祝に蒸気機関車をプレゼントされると、即、穴を掘って埋めてしまいました!!ずっと後には、そのスピードに喜ぶようになりますが。
義和団事件では、日本軍が大活躍して、国際的地位を高めています。この時の規律の厳正さ、勇敢さ、強さが1902(明治35)年1月の日英同盟につながりました。
会津出身の柴五郎中佐は、各国の兵、マスコミ、外交官たちの絶賛の的でした。後年、陸軍大将にもなった傑物ですが、大東亜戦争敗戦後、割腹で自裁を図るも、80歳以上と高齢で斬り裂く力が足りず、苦労して死んでいます。
気骨は変わらず武士、武人でした。柴大将については、『守城』(光人社)、『ある明治人の記録』(中公新書)があります。こうした人の生き方、何より覚悟を学び、身に着けて欲しいものです。
日本兵だけは負傷した後、治療・手術の時も「痛い」とは言わず、笑っていたというので、各国の看護婦たちに大いにモテたそうで、今の日本の男とは心意気も身体の強さも段違いでした。
この忍耐強さも、武士道の一つです。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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