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『天晴!な日本人』第48回 剛毅朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近しを体現した秋山好古(よしふる)大将(9)

そうして、運命の3月10日、クロパトキンは余力が十分あるのにもかかわらず、退却したのでした。
クロパトキンが退却したのは、旅順で将兵の死をものともせず、猛攻を続けた乃木軍が来たという恐怖が原因です。乃木大将、ロシア軍の間で悪魔的に畏怖されていたのです。

ロシア軍は、弾薬・砲弾を撃ち尽くした日本軍が見ている前から分列行進しながらの撤退で、追撃もかなわず、見送るしかなかったのです。この時のクロパトキン、逆に日本軍は余裕があるから静観しているのだ、と見たのでした。

ロシア軍内では、以前からクロパトキンとグリッペンベルクが口論を重ねていましたが、途中でグリッペンベルクは怒って本国に帰り、その後、クロパトキンは第一軍司令官に降格、代わってリネウィッチが総司令官になっています。
仮にグリッペンベルクかリネウィッチが総司令官であったならば、勝敗の帰趨きすうはわからなかったでしょう。帰趨というのは、行き着く先、結果のことです。

ともあれ、この日、午後2時30分、第二軍第六師団が奉天城一番乗りを果たし、日の丸を掲げて占領しました。この3月10日は以後、陸軍記念日になっています。
ロシア軍の損傷は死傷約6万人、捕虜約2万人、日本軍は死傷約7万人という壮絶さでした。

大日本帝国陸軍、実は弾薬・砲弾ばかりではなく、兵力補強の点からも、この奉天戦を最後にして講和を進めてくれ、という構想だったのです。
敵のロシア軍はシベリア鉄道でいくらでも補充できるのに対し、日本はぎりぎりでの戦いでした。そもそも欧州の列強国ならば、日本の持つ装備と兵員で強大なロシアと戦争をするということは考えません。
戦う以上、相応の装備と兵員は確保しているのだろう、という思い込みが、日本にとって有利に働きました。そのため、マスコミ、国民には極秘で、この人たちでさえ、日本はまだ余力があるのだ、なぜ追撃しないのだ、となったくらいだったのです。
満洲の地に来ていた児玉が早速、帰国して政府の尻を叩いています。このような、全体戦略を立て、実行する賢さ、自律心が明治の軍人・政治家にはあったのです。

好古は、この後も戦地にて、小さな戦闘と偵察に精を出していましたが、6月19日に母の貞が逝去したという連絡が来ます。
戦争中、「湯に入りに来たんじゃない」と入浴を嫌って、当番兵、副官らを困らせた好古ですが、貞の死去を知ると、従軍後、二度目という入浴で斎戒沐浴さいかいもくよくした後、「母上は散られけり山桜」と葉書に書き、居室で長時間の瞑想をしました。

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