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『天晴!な日本人』 第103回 徳富蘇峰(とくとみそほう)(1) 「大ジャーナリスト、徳富蘇峰」

皆さんは、徳富蘇峰とくとみそほうという人物を知っているでしょうか?
「日本が生んだ最大の新聞記者・ジャーナリスト」「明治・大正・昭和を生きた大言論人」「明治から昭和にかけてのオピニオンリーダー」「マスコミ界の巨人」などなど数多あまたの称号を授与された人でもあります。
そればかりではなく、刊行した著書も膨大で、尚かつ、歴史をさかのぼった深い探求に裏打ちされた書でもありました。

ただし、私自身、堅固な信条と天晴れな生き方の基本は、目先の利益に左右されない一貫性としているので、蘇峰について、「生き方は天晴とは言えず」、ただ、その仕事、時代を超えて日本人を啓蒙し、影響を与えたことについては偉大と認識しています。
望むべくは、やはり、武士の流れをんだ明治人である以上、もっと骨太で無私無欲に生きていたら、天晴な偉人だったのに、と残念なところです。
それでも知識・教養として蘇峰ははずせないので、これを機に、是非、覚えておいて下さい。

<その生いたちから青年期まで>

蘇峰は、本名を猪一郎いいちろうといい、あざな正敬まさたかです。
字というのは古代中国にならって、成人後に本名以外に用いる名のことです。

一八六三(文久ぶんきゅう三)年一月二五日(西暦三月一四日)、肥後国ひごのくに(のち熊本県)上益城かみましき杉堂すぎどう村で生まれました。幕末の頃です。

この年には、前年の「生麦なまむぎ事件」を端緒とした「薩英さつえい戦争」が勃発しています。
薩摩さつまの国父、島津しまづ久光ひさみつが江戸から薩摩への帰途、仕来しきたりを知らなかったイギリス人男女が、久光の行列を乗馬にて横切ったので、藩士らがイギリス人を無礼討ちし、殺傷した事件です。
それで強国イギリスが軍艦をつらねて薩摩に来たところ、応戦したのでした。
結果は、鹿児島の町が焼かれましたが、薩摩側もイギリスの艦長、他を戦死させています。敗戦でしたが、薩摩は勝ったと解釈しています。

この戦いによって、薩摩は海軍の重要性と、日本の文明の遅れに気付いて、大国を排斥はいせきする攘夷じょういから開国へとかじを切りました。
他方、イギリスは薩摩の強さに驚き、以後は親善・同盟化へと進みます。
当時、イギリスは七つの海を支配下に置き、アジアも侵食、敵なしだったのが、薩摩という日本の一地域でしかない藩の強さを見せつけられ、「日本はあなどれない」と認識を改めたのでした。

蘇峰の父は一敬かずたか、いっけいと読むこともあります。
久子ひさこの第六子長男として、母の実家で生まれたのです。
父の一敬は八代目で、家は惣庄屋そうじょうやと代官を兼ねる家柄で、津奈木つなぎ郷の郡筒こおりづつ小頭こがしらも務めていました。母の実家も同役を務めていた家柄で、地域では三本の指に入る名家であり、声望は第一とされていました。

帯刀たいとうを許されていますが、正式な武家ではありません。惣庄屋というのは、赴任してきた郡代ぐんだいと村の庄屋の中間にあり、ごう(群より下の自治体)の租税・刑法・教育・土木を管理する下級地方官でした。

父は祖父の美信よしのぶと異なり、小心者で、家督相続は一八六八(明治元)年、四六歳になってからです。
久子との結婚は再婚で、生まれた四人の子はことごとく女児で、久子は肩身の狭い思いをしていました。
蘇峰を身ごもった時も、わざわざ実家に帰って出産したほど、しゅうと、小姑に冷たくされ、時には叩かれることもありました。
男児が生まれなければ離婚という話もあった中、結婚一四年目にして熱望の蘇峰が誕生したのでした。
その時、久子はあたかも凱旋将軍のごとく、意気揚々と婚家に帰ってきたのです。
時に、一敬は四〇歳、久子は三四歳です。祖父母も合わせて一家で蘇峰を後継者として育てています。

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