『天晴!な日本人』 第96回 「武士道精神を以って、キリスト教に殉じた至誠の女性、山室機恵子(2) 「廃娼運動とは何か」
<婦人の権利のために活動する>
矯風会の書記となった機恵子ですが、書記という立場は軽い物ではなく、この会においての機恵子の活躍は大きなものでした。不運にも先の昭和の戦争で、その記録が消失してしまいました。日本初の女医の荻野吟子も矯風会に所属し、副会頭の重責を担っています。
「キリスト教婦人矯風会」自体は、アメリカの酒場の排撃運動に端を発し、ノース・ウエスタン大学の女性初の学部長となったフランシス・ウィラード女史によって組織され、世界的に広まったのです。女史は大学総長の夫にこの活動を禁じられた折り、決然と離婚し、学部長、総長夫人の地位を捨てています。
会は白いリボンを会章として、「純潔・平和・排酒」の三大目標を掲げていました。この純潔が廃娼運動につながっていくのです。
余談ですが、アメリカは一九一九年から一九三三年まで「禁酒法」という稀代の悪法を施行しました。この悪法はシカゴを根拠地としていた「暗黒街の帝王」のアルフォンス・カポネ(アル・カポネ)に現在価値で一兆円以上という桁外れの利益をもたらせましたが、その多くは密造酒の販売での利益でした。
一九三三年から大統領職を務めたフランクリン・デラノ・ルーズベルトの大統領選挙での公約の一つが、「禁酒法」の廃止だったのです。アメリカ人というのは、時に中庸を忘却し、極端な政策を実施しますが、その見本になりました。
「女学雑誌」でも禁酒を社説とした他、廃娼、一夫一婦について再三、識者の論稿を掲載し、世論を喚起しています。尚、矯風会は一八九三(明治二六)年に、「日本基督教婦人矯風会」と改称しました。
一八八九(明治二二)年には一夫一婦の建白書を元老院に提出しています。民法上、一八八二(明治一五)年の改正までは、妻と妾(愛人)は同じ二親等であり、妻妾同居も珍しくありませんでした。会頭の矢島は、この建白書を出して無事に帰ってこられるかわからぬ、として白無垢を着て、切腹を申しつけられてもいいように懐剣を胸に秘めて行きました。
また、帝国議会が開かれた折り、衆議院規則一六五条に、「婦人の傍聴は許さず」の一項があり、矯風会は、「廃止せよ」の陳情書を出して削除させています。今の世からすればとんでもない条文ですが、明治にはこのような弊風が残っていたのです。
刑法においても姦通罪があり、条文は「有夫ノ姦通シタルモノハ五ヶ月以上二年以下ノ重禁錮ニ処ス其ノ相ヒ姦スルモノマタ同ジ」(※刑法明治13年太政官布告第36号 第353条 有夫ノ婦姦通シタル者ハ六月以上二年以下ノ重禁錮ニ處ス其相姦スル者亦同シ)となっていて、罰せられるのは人妻と、その相手だけでした。夫がいくら愛人を作っても、その女性が「有夫」でなければ罰せられないのです。
一九二三(大正一二)年六月九日に作家の有島武郎と「婦人公論」記者の波多野秋子が心中したのも、波多野の夫から法外な金を要求されていたことが原因で、この刑法により有罪となるか、巨額(今の約一億円)の金を払うか、の末のことでした。
ちなみに波多野は超のつく美貌の持ち主で、それまで原稿を引き受けてくれなかった名高い作家たちが、波多野にかかると、一転して引き受けたというほどの美女です。
その美人ぶりで、社長の滝田樗陰も連れ歩いていました。永井荷風、芥川龍之介なども、ころっと宗旨変えして原稿を書いています。
矯風会では「有妻」の男性も姦通すれば罰せられる、離婚の理由になるように改正せよ、と運動していました。そうすれば、芸者や娼妓との姦通となるので、廃娼につながるからでした。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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