『フィスト・ダンス』 第153回 「ケジメは、自(みずか)らつけるもの」
<1年坊よ、試練だ>
初めから方針が決まっていると言った翔太に対して、マーボとトミーは怪訝な顔をした。
「どうすんだ?」
マーボが首を捻った。
「自分が蒔いた種は自分で刈り取るってことだ。それができなきゃ、一人前に3年坊と喧嘩なんかするなってことだ」
「そりゃ、そうだけどよ。大中の後輩がやられたってのはどうなるんだ?」
「そうだ。これが稼業だったら、どんな事情があろうと、やられたら、やり返す、オトをつけてもらうってことだぜ」
トミーにマーボが続く。稼業とは、ヤクザのことだ。
この業界では、きっかけはどんなものであろうと、組の者がやられたら、やり返すことが不文律である。
最初にやられた方に、やられるだけの理由があったとしても、あとは力と力の戦いになる。
弱い組は、やられ損の世界なのだ。建前として、業界のルール、掟はある。あるが、現実は強者の思うがままだ。
国際法があっても、世界はアメリカ、中国、ロシアのごり押しが通るのと同じ構造である。
マーボもトミーもヤクザの子だから、そういう思考が常識だ。いや、ヤクザでなくても、大中という一つの組織とするならば、自分の組織の者がやられたなら、それに対して報復なり、代償を求めるのが常道だろう。
実力さえ許せば、どこの学校の番長でも同じ道を辿るはずだ。
それでなければ番長などは務まらない。自分たちの番長が報復もしないとなれば、一気に支持を失うこともあるだろう。
しかし、翔太には納得し難いことだった。
翔太は実力主義に徹していた。
自分の力が及ばないからといって、誰か、実力あるものの庇護を受けて、報復ないし代償を求めるというのは翔太の流儀ではない。
フェアではないのだ。
また、自分達がやられても、3年がいくらでも仇を討ってくれるという安穏、安易な気持ちで街をうろつくことは、男のやることではない。
そんなものは、いつも唱えているサムライではないという思考だ。
強いということは正々堂々と同義だ。
ここから先は
無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?