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自己紹介<前編>「みたての庄司」になるまで

ざっくりプロフィール

庄司英生(しょうじひでお)
セルビア(旧ユーゴスラビア)・ベオグラード市に産まれ、兵庫県神戸市で育つ。株式会社リクルートにて総合企画部MVP/HR AWARDグランプリ/TOPGUN AWARDなどを受賞した後に退職し、2014年に京都市にて「株式会社みたて」を創業。訪日外国人(インバウンド)に向けた日本文化体験プログラム(茶道/書道/華道/料理/利き酒)のサプライヤーとして観光業界でのキャリアをスタート。現在は、DMC(ランドオペレーター)として欧米豪からのインバウンド向けに国内での旅行手配をBtoBを経由して行いつつ、公共/民間クライアントの欧州PR事業を運営している。また、コロナ禍において企画したオリジナルブランドの日本酒「朔(さく)」がフランスの日本酒コンクール「Kura Master」にて「プラチナ賞」を2年連続( 2023年 / 2024年 )で受賞し、日本酒と旅の企画にも取り組んでいる。観光庁「地域周遊・長期滞在促進のための専門家」登録。ラグビー日本代表をこよなく愛する50歳(11月まで)。


じっくりプロフィール

セルビア(旧ユーゴスラビア)・ベオグラード市に産まれました。総合商社に勤めていた父が欧州駐在をしていたのですが、産まれて4か月目には任期を終えて日本に帰国。そのため、もちろん外国語はしゃべれませんし、当時の記憶もありません。それどころか、3人きょうだいの末っ子だったため、ろくに写真も残っておらず、海外で産まれた実感はありませんでした。大学生の時に外務省(だったと思う)からハガキが届き、「二重国籍状態になっているので日本とユーゴスラビアどちらか選んでくれ」と言われたのですが、その当時はユーゴスラビア内戦が最も激しかった時期なので、迷わず日本を選びました。

ノートルダム寺院にて


その後、高校まで兵庫県神戸市で育ちました。中学生の時に「スクール★ウォーズ」を観て感動しますが、中学にはラグビー部が無かったので、身体を強くしようと柔道部に入部(初段を取得)。高校ではラグビー部(教師からは「アホ製造部」と呼ばれていた)に入り、授業には出ずに、午後から学校に行くというプロ選手のような毎日を送っていました。そのおかげで、兵庫県の代表選手に選ばれ、国体に出場。スポーツ推薦の話もありましたが、「花園でラグビーをしてみたい(関西の大学ならそれができる)」と考え、浪人の道を選びました。浪人時代は、関学アメフト部出身の家庭教師のスパルタ指導のもと(蹴とばされながら)、当時のことをよく憶えていないくらい勉強して、同志社大学に進学。そんな思いまでして入ったラグビー部でしたが、入部するところで満足してしまった僕は、そこから死に物狂いの努力をすることができず、やがて挫折して、2年目で退部してしまいました。僕はここで、「手段」と「目的」をはき違えることの危うさを学びます。

新卒で入社したのは、株式会社パソナ(人材派遣)でした。当時、阪神淡路大震災からの復興を期して本社を神戸に移転し、精力的に雇用を創出していた同社の姿勢に感銘をうけました。入社後は営業職として東京に配属されましたが、担当エリアは立川市~山梨県全域という、知事より広い地域を任せられ、営業車で適度なナップをはさみつつ、愉快な仲間たちと楽しく仕事をしていました。パソナが株式上場を検討するにあたり、業務プロセスの刷新とシステム化に取り組む必要があったのですが、その流れで発足したBPR(Business Process Reengineering)プロジェクトにアサインされ、そこで一緒に仕事をしたコンサルティング会社の仕事ぶりに刺激され、井の中の蛙感を感じ、転職を志向するようになります。

転職したのはビジネスエンジニアリング株式会社(旧・東洋ビジネスエンジニアリング株式会社)でした。SAP R/3というERP(統合業務パッケージ)システムの導入コンサルティングを主とするIT企業です。パソナでそれなりの実績をあげていた僕は、意気揚々と仕事をし始めましたが、しばらく仕事をしてみて、何か様子が違うことに気づきます。周囲の人が何を言っているのか、わからないのです。ITシステムの専門用語だけではありません。営業部門の上司や先輩が何を言っているのか、なぜめちゃくちゃ怒られるのかが理解できません。営業部門は外部で実績をあげた即戦力たちで構成されていて、勘違いしている未経験者にかまっている暇はなく、ハラスメントにあふれる毎日で、北斗の拳の「修羅の国」に迷い込んだような気分でした。

そんな「修羅の国」では、多くのことを学びました。まずは、1件数億円のプロジェクトを受注するまでの、緻密な営業戦略。これは、「修羅の国」が海外プラント営業(東洋エンジニアリング)の出身者が多かったことに由来します。また、「営業」という仕事の専門性も身に着けることができました。3年在籍しましたが、最後は自分でそれなりに仕事をまわすこともできてきて、修羅たちのあたりもマイルドになり、快適に過ごせるようになってきました。でも、「ERPパッケージを導入することによって在庫日数が○○にち圧縮できた」といったような仕事に、情熱を燃やすことができない自分にも気づき始めました。プライベートでもいろいろあり、「自分は何をしたいんやったっけ」という問いに向かい合います。

そこで、新卒でパソナへの入社を決めたときに、「ヒトが活き活きとはたらくっていいなあ」と思ったことを思い出します。ちょうど、メンタルヘルスが注目され始めた時期でもあり、転職支援のインテリジェンスのキャリアアドバイザーにそういう仕事って無いですかねと相談したところ、「それって、インテリジェンスの私が言うのもなんですが、リクルートさんじゃないですか、うちからは紹介できませんが」と言われ、リクルートの中途採用ページから応募し、採用となりました。

2005年に株式会社リクルートに入社し、2014年まで在籍しました。リクルート時代のことは、またあらためて書きたいと思います。本当にいい経験をさせてもらいました。リクルートには「フロンティア制度」というユニークな制度があって、35歳を始まりとして、3年ごとに退職を意識するようになります。僕は41歳になる年に辞めようと思い、もう一度、「自分は何をしたいんやったっけ」と問うことになります。

その時、僕は、「国際派のビジネスマンになりたい」と思いました。海外で産まれたのに、4か月で帰国したため外国語はできないし、外国人の友達もおらず、海の外のことは何も知りません。自分でも気づかないうちに、それがコンプレックスとなっていました。41歳からなれる国際派ビジネスマンへの道。そんなんあるんかいなと思っていたところに出会ったのが「インバウンド(訪日外国人)業界」です。そのころは、インバウンドがちょうど1000万人を超えたころで、これからの成長が約束されている業界と報じられていました。急激に立ち上がったため、経験者も少ない。「これだ」と思いました。

これまで3社の経験で培った営業スキルを武器に、拡大するインバウンド産業の中で外国人と仕事で渡り合い、国際派ビジネスマンとなる。これを目標に、2014年、京都市東山区の町家を借りて、株式会社みたてを創業しました。

・・・長くなりました。みたて創業以降のこと、リクルート時代のことは、またあらためて書きたいと思います。稚拙な文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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