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町と建築の歴史から、建物の価値を考える|旧矢﨑商店建築調査レポートvol.1

「旧矢﨑商店」は、昭和11年(1936)に建てられた生糸問屋の商家です。道路に面する西側は看板建築のような洋風の外観、東側の庭から見ると和風の日本建築という、少し不思議なつくりになっています。下諏訪町が新たな交流総合拠点として活用するために取得した建物で、現在は建物の価値調査・研究、その後の活用検討を推進しています。
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御田町文化研究会は下諏訪町の推進するこの調査研究にご一緒させていただきながら、発信面などでサポートをさせていただいています。旧矢﨑商店の調査や活用検討を通して、「古くから引き継がれてきたもの・こととどう向き合うべきなのか」を考えていくきっかけを作り出せたら、そんな想いでプロジェクトに取り組んでいます。

本日からは、現在推進中の信州大学さんの調査研究についての記事をシリーズでお届けしたいと思います。調査研究を通して建物の歴史が明らかになってくると、この家に込められた想いや町の歴史の蓄積が見えてくるような気がします。

建築の価値|2つの価値観が融合した建築

調査研究記事の第一弾では、「建物の価値の総括」についてご紹介したいと思います。

旧矢﨑商店は、その建物の中に一歩足を踏み入れれば、他とは異なる独特な価値があることに気付く、そんな建物ですが、「その価値がどこにあるのか?」「建築的目線から見て何が価値なのか?」といった点は明らかになっていませんでした。

しかし、地域や建物の有する歴史と価値観を引き継ぎながら建物を活用していこうと思うと、建物の価値を正しく把握することはとても重要な観点となります。そのようにして始まったのが、信州大学さんによる建物の調査研究です。

約半年をかけて行われてきたこの調査研究を通してわかったのは、旧矢﨑商店の建築的な価値が「和=質の高い大工の手仕事」と「洋=国際感覚も反映した最新のデザイン」の融合にあるということ。また、その2つが下諏訪町の歴史・文化に裏付けられているという点に、その個性があるということもわかってきました。

西側の外観や増改築部分は洋の要素、東側の既存建物は和の要素で成り立つ

和の空間|立川流・大隈流の流れを汲む質の高い手仕事

旧矢﨑商店が有する価値の一側面は「質の高い大工の手仕事」と言えます。
デザイン性の高い建具や、壁の施工を見ることで、当時の腕利きの職人が丹精込めて施工したことがわかります。

シンプルに見える外観の壁も高度な技術を要する左官仕事となっている

調査の一環で、現役の左官職人の方と建物の壁を見て回る現地調査を行いましたが、その際にも建物の外観や室内の壁、文庫蔵のなまこ壁等どれをとっても「とてもレベルの高い職人の仕事」という評価をいただきました。

左官職人さんとの現地調査

質の高い大工仕事が反映された建物、というだけでも建物の価値としては十分ですが、旧矢﨑商店の独自性を高めるのが「その大工仕事の裏には立川流・大隈流の流れを汲んだ地域の歴史」が背景にある点です。

この背景を説明するために、諏訪大社についてのご説明をさせていただきます。

諏訪大社は、諏訪湖の南に位置する上社(前宮と本宮)と北側の下社(春宮と秋宮)の二社四宮で構成される、全国に一万社余ある諏訪神社の総本社。日本最古の神社の一つとも言われる由緒ある大社で、下諏訪町にはこの四宮のうちの二つの宮「諏訪大社下社春宮」「諏訪大社下社秋宮」が鎮座しています。

下社春宮の幣拝殿・左右片拝殿

国の重要文化財にも指定される両宮の幣拝殿・片拝殿は共に同じ構成となっている点が特徴的ですが、その作り手は異なります。春宮は「大隈流(おおすみりゅう)」、秋宮は「立川流(たてかわりゅう)」がそれぞれ手がけています。

「諏訪藩主は大隅、立川の両者をよび、腕を競わせることになった。諏訪大社の下社を同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作るよう命じた。どちらも全力を注ぎ見事に完成した。大隅流の作った社を「春宮」、立川流の作った社を「秋宮」といい、現在もその当時の姿で下諏訪町に存在している。
 結果は立川流の評判が勝り、立川和四郎富棟の出世作となり、以後立川流は大隅流を圧倒し発展していった。」

立川流HP

とあるように、両者が競い合うことにより高いレベルの建築を作り上げることとなります。下諏訪をはじめとする諏訪エリアには、腕を競いながらその仕事の質を高めていったこの二つの流派「大隈流」「立川流」の系譜が今も引き継がれています。

そしてこの流れは旧矢﨑商店にもつながっていきます。
旧矢﨑商店の大工棟梁は近くの寺院「来迎寺」も手がけた「立石初三郎」という人物で、沢村専太郎『立川流の近代彫刻』(甲陽書房、1954 年)に協力者として名があがっていることからも、おそらくは立川流の一派であったと推定されています。

近世以前から諏訪大社に関係して育まれた大工技術は、近代に入り、製糸業の発展とともに、町場にも質の高い建築を生み出していったー

旧矢﨑商店の和の空間は、こうした流れを物語っています。

洋の意匠|国際潮流を反映した最新のデザイン

旧矢﨑商店と雰囲気が似た建物に、「旧朝香宮邸(東京都港区)」があります。
旧朝香宮邸はアール・デコ建築として有名な建物で、外観にはインターナショナルスタイルの要素も見てとることができます。これらの建築様式は世界的な建築・装飾デザインの潮流の中で生まれた最先端のもの。

旧朝香宮邸外観

旧矢﨑商店の外観にもアール・デコやインターナショナルスタイルの建築に見られるような特徴があり、

モダンな雰囲気となっています。また、内観の一部には旧朝香宮邸のようにアール・デコの要素も確認することができ、当時における最新の建築意匠が取り込まれていたことがわかります。

旧矢﨑商店の外観における特徴的な意匠

これらの特徴を捉えると、旧矢﨑商店はアールデコの要素を持ちつつも、全体としてはインターナショナルスタイルの流れを汲んだ建築であるということができます。
※アール・デコ、インターナショナルスタイルなどの詳細のご説明は次の「外からの視点での建築調査」の記事でご紹介させていただきます。

しかしなぜ、当時の世界的な先端性を、旧矢﨑商店は取り入れることができたのでしょうか?

ここには下諏訪町の産業の歴史が関係してきます。下諏訪町では明治以降、当時の先端産業であった製糸業が隆盛し、地域の経済を支えていました。旧矢﨑商店の矢﨑家も生糸問屋として財をなした商家でありました。隆盛を極めた先端産業に関わることは、あらゆる人や地域と繋がり、あらゆる情報を得ることにも直結します。旧矢﨑商店のこの国際性のある外観も、こうした情報や人のネットワークを元に結実したものであったことが想像できます。

前述した質高い大工仕事と同様、特徴的な外観にも、下諏訪町の歴史が反映されているということができます。

想像を膨らませるー憧れを詰め込んだ看板建築

看板建築とは、ファサード(建物正面のデザイン)が立板のような形状で、西洋建築風であることが特徴の建物。詳しくは次の記事でご紹介しますが、旧矢﨑商店もこの看板建築に属する建築です。

看板建築は元々、関東大震災以降の東京で多く建築された様式で、防火対策という機能的側面を持ちつつ、独特のデザインのものが多いのも特徴です。それは、関東大震災を経て建てられた、最先端の建築群の最新のデザインを、市井の大工たちが見様見真似で取り込んだことによるとされています。有名建築家のデザインへの憧れを、市民が自分たちの建物に詰め込んだわけです。

先ほど旧矢﨑商店は「旧朝香宮邸」と類似点がある、ということを書かせていただきました。信州大学の梅干野先生からこのご指摘をいただいた後に、筆者も実際に旧朝香宮邸に足を運んでみました。

旧朝香宮邸は宮家の自邸として建てられた建物。朝香宮家を創立した朝香宮鳩彦王がフランス滞在時に魅了されたアール・デコ様式を取り込んだ、国の重要文化財にも指定される建築です。装飾性が高いものの決して派手ではなく、格式の高さや品の良さが感じられる、本当に素晴らしい空間でした。

旧朝香宮邸の様子

このような格式高い建物である旧朝香宮邸と「類似している」とまではもちろん言い切れないのですが、意匠における旧朝香宮邸のエッセンスを、旧矢﨑商店でも多く感じることができます。

旧朝香宮邸に”憧れて”、そのエッセンスをなんとか取り入れた、というのがふさわしいように感じるのです。

旧朝香宮邸が竣工したのは旧矢﨑商店が竣工した3年前。
もしかしたら旧朝香宮邸を東京で見た矢

﨑栄さんが、その「憧れ」を自邸建設の際に取り入れたのかも?
そんな想像が膨らんできます。

上段は旧朝香宮邸、下段がそれと類似する旧矢﨑商店の意匠

文・写真:御田町文化研究会 坂本


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