【映画】「もしも徳川家康が総理大臣になったら」日本の政治は変わるのか?
『映画 もしも徳川家康が総理大臣になったら』を鑑賞した。
※ネタバレにご注意ください。 #ネタバレ
映画の感想
タイトルからして、これは歴史ものではない。歴史ものとして期待して観たら肩透かしを食うだろう。
監督は「翔んで埼玉」を手掛けたコメディ映画の鬼才・武内英樹であることから窺い知れるように、「もしも徳川家康が総理大臣になったら」はコメディ映画なのだ。
それでも、信長・秀吉・家康の戦国武将の三英傑の性格をホトトギスで例えた逸話程度の歴史ミニ知識は持ち合わせていた方が、よりこの映画の世界観を楽しむことができるだろう。
時は2020年、コロナ感染で内閣の全閣僚が死亡するという未曽有の危機に陥った日本を救うべく、AI技術と3Dホログラム技術を駆使して歴史上の偉人たちを現代に蘇らせ、偉人による最強内閣を組閣するという設定で物語は始まる。
歴史上の偉人たちの知恵を結集して、日本のピンチを救うというコンセプトだ。
主演は、官房長官・坂本龍馬役の赤楚衛二と女性記者役の浜辺美波の2人だ。
主要閣僚には、内閣総理大臣に江戸幕府で安寧の世を築いた徳川家康・野村萬斎、経済産業大臣に最恐の革命家・織田信長・GACKT、財務大臣に空前の成り上がり者・豊臣秀吉・竹中直人が登用された。
その他の閣僚としては、徳川吉宗、北条政子、徳川綱吉、足利義満、聖徳太子、紫式部などが偉人として召喚されたが、どういった基準で選定されたのかは謎である。
が、そこも含めて楽しむところだ。
配役で言うと、野村萬斎の徳川家康は適役であったし、GACKTの織田信長もなかなかいい味を出していた。
しかし、一番しっくりきていたのは竹中直人の豊臣秀吉であろう。過去に何度も豊臣秀吉を演じた経験があり、秀吉本人と言われても違和感を感じないほどの成りきりぶりはアッパレだ 笑
狙いなのであろうが、女優の長井短扮する聖徳太子はビジュアルがどう見ても弱すぎて笑えた。
「聖徳太子もっと頼りになるはずやろ!」って心の中でツッコミを入れてしまった。
観月ありさの紫式部は、平安顔の化粧で人相が変わり過ぎていて、最初誰が演じているのわからなかったほどだ。
「もっとキレイな感じで出してあげてもよかったのに・・・」と思った。
物語は、AIプログラムに仕込まれたバグにより偉人内閣で内紛が起こり・・・という具合に進展していく。
歴史のミニ知識に絡ませた笑いがそこかしこに散りばめられていて、少々おふざけの度が過ぎている感もあるが、それだけ楽しめる映画である。
しかし、この映画は単なるコメディ映画ではなかったようだ。
民主主義の機能不全に陥っているかのような日本の政治状況に対する強烈なアンチテーゼでもあったのだ。
それが明確に示されていたのが、大団円で総辞職の意思を固めた徳川家康が国民に向けて語りかける場面だ。
※セリフはうる覚えの意訳です 笑
秀吉:「この時代では国民主権だと言うが、その肝心の国民には主権者の自覚がない。選挙の投票率は低く政治に参加する意思が見えない。国会では寝ている議員がいるし、野党は対案もなく無責任に反対するばかりだ。与党の政治家も、決断ができず結果に対して責任を取ろうとする気概も無い。これも全て、政治参加しようとしない国民が招いた結果だ。」
だから秀吉は、独裁政治を主張する。
それに対して家康は、400年後の子孫たる国民たちを慈しむような目で見ながら語るのだった。
家康:「秀吉の言うことにも一理あるが、私は国民に対して希望を捨てていない!」
家康の最後のメッセージは以下の言葉であった。
家康:「他人に期待するのではなく、自分に期待しろ!」
ちょっと説教臭いセリフであるが、家康に仮託して語らせていたせいか違和感は感じなかった。
「もしも徳川家康が総理大臣になったら」は、前宣伝でコメディ映画と見せかけておいて、実のところ硬派なメッセージ性を含んでおり、日本の政治状況について大いに考えさせられる映画でもあった。
「もしも徳川家康が総理大臣になったら」日本の政治は変わるのか?
映画の中では、偉人内閣の働きで国民の政治参加意識が変わったが、現実世界で「もし徳川家康のような人格者が現れて総理大臣になったら」日本の政治は変わるだろうか?
映画を観終わって現実世界に立ち返ってから、ふとそんな疑問が湧いてきた。
その答えは、残念ながらNoではないか。
それは、政治が今のような状況にある原因は政治に携わる人間の資質の問題と言うよりも、政治システムその物にあると考えられるからだ。
議員内閣制の功罪
日本の政治システムは議院内閣制を採用している。
国民に選ばれた議員が立法府を構成し、その議員の多数決で行政府の長である総理大臣を選出している。そのため、議会において政権与党は常に過半数を占めていて政府が出した法案が否決されることはない。
※参議院で与野党が逆転するねじれ国会は話が別
この政治システムは、政権が政策を実行しやすいメリットがある一方で、政権基盤を立法府に依存しているため不安定になりやすいデメリットも抱えている。
そもそも、立法府を構成する一人一人の議員は総理大臣を選出するという意味では同等の権利を有しており、議員の多数の賛同を集めるのには多大な労力が必要となる。
信長・秀吉・家康の時代では武力で従わすことができたが、民主主義の世の中では、そのような野蛮な手は使えない。
だから、多数派を形成するために派閥が作られる。選挙に必要な資金や人の面倒をみてもらう代わりに、派閥の領袖の意見にしたがって投票するというのが派閥の基本原理となっている。政権におけるポストの獲得と配分も派閥の求心力の1つだろう。
※派閥は表向き解散されたが、いずれ復活すると考えられる
政治は小さな貸し借りの連続だ。あの時は自分が譲って貸しを与えたから今度は賛成して借りを返してくれなどの交渉の果てに法案の賛否が決まる。
派閥の領袖であっても、単独では政権を作れないので他派閥との交渉でも貸し借りをおこない、政権の枠組みが形作られていく。
夜の料亭での密談は、そのための手段だ。
過去の膨大な人間関係の貸し借りの積み重ねで多数派を形成しなければならないので、キャリアの長い高齢者でなければ総理大臣にはなれないのだ。
そして、過去の膨大な人間関係の貸し借りの積み重ねの上に成立している政権だから、しがらみが多すぎて改革が進まないのだ。
派閥活動には多額の資金が必要であり、献金を集めるためのパーティーが開かれ業界団体からの陳情が同時になされる。
表でおこなわれた献金と陳情は今のところ合法であるが、それを裏でおこなうと、贈賄・収賄の関係に発展してしまう。
これが今の政権政党の実態であると思われるが、この状況はいくら政権政党を批判しても改まることはないだろう。
全ては政治システムの問題なのだ。
二元代表制が望ましい
議院内閣制では、行政府の長である総理大臣を選出するのは立法府の議員である。だから、総理大臣は立法府の与党議員の意向を無視できない。もし与党議員の支持を失えば、たちまち政権は瓦解してしまうのだ。
岸田総理はとても人が好さそうなので、きっと国民の為の政治をおこなって国民から感謝をされたいと願っているに違いない。何も国民から呆れられるような政治を行って非難を浴びたいなどと考えているわけではないはずだ。
しかし、その政権基盤を支えているのは国民ではなく与党議員だ。だから、与党議員をまとめている麻生元総理などの有力者の意見に従うしかないのだ。そして、彼ら有力者の背後には献金と陳情をおこなう業界団体が控えていて、業界団体の要望が政策に反映されていく。
政治に国民の声が届きにくいのも当然だ。
これは個人の資質の問題ではなく、議院内閣制そのものの問題だ。
この欠点を補う制度としては、二元代表制(大統領制)が考えられる。
二元代表制は、行政府の長である大統領が国民によって直接選出される政治制度だ。
大統領は国民によって選出されているから議会の顔色を窺う必要はないし、議会の都合で任期途中で大統領が解任される心配もない。
もちろん法案成立には議会の協力が必要で、そのための協力関係は築く必要があるが、議院内閣制とは違って必要以上に与党議員におもねる必要がないのだ。
どの政治システムにも長所・短所が存在し、完璧な仕組みは存在しないが、今の日本の政治状況を打開するには、二元代表制(大統領制)への切り替えが有効に思える。
映画の続編
映画の感想からだいぶ脱線してしまった。
もし、「映画 もしも徳川家康が総理大臣になったら」の続編を制作するのであれば、次は織田信長を主人公として、日本の政治システムを根本から改革する物語 「映画 もしも織田信長が大統領になったら」が観てみたい。
改革は、革命児・織田信長にこそふさわしいと思うのだ。
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