『僕は勉強ができない』山田詠美 から読み解く現代社会で強くなっていく個人力
『僕は勉強ができない』 山田詠美
主人公の男子高校生、時田秀美は勉強ができない。というより、勉強ができることに価値を見出さないのだ。部活はサッカー部に入っており、女子にもてる。おまけに年上の彼女もいる。今でいうところのリア充だ。しかし、どこか社会や大人に対して反抗的な考えを持っている。その原因の一つが、秀美が幼い頃、両親が離婚しており、父親と一緒に住んでおらず、昔からことあるごとに「父親がいないのに偉いね」、もしくは「父親がいないせいでああなるんだ」といった類の言葉を浴びせられ、生きてきたことだった。社会から偏見の目で見られ続けたことが、心の傷となり、そこに反抗する性格が出来上がってしまったのだ。
この小説の初版が1991年。作中の舞台となったのが、1980年代と推定される。近代からポストモダンに移り、価値観の多様化が進んでいった時代である。当時の高校生達のほとんどが経済的に厳しいわけではなく、高校卒業後は、大学に進学してもいいし、働いてもいい、ある程度の自由が保障されていた。ただ、秀美自身の家庭は、周りとは違うところが多く、母は夜な夜な遊びに行き、自分の為にお金を使う。おじいちゃんも同居しているのだが、大の女好きで未だにうつつを抜かしている。この作品は、そういった環境の中で育った秀美の価値観と、周りの価値観とのぶつかりあいが、秀美の一人称で語られていく物語である。 まず、秀美が批判したのは「勉強だけができる人だ」だ。学級委員を務め、常に学校で一番の成績を取る同じクラスの脇山に対して、秀美は勉強ができても、女にもてなければ何の意味もないと説く。すると、脇山は虚を突かれ、赤面する。そして、秀美の女友達が脇山に気のある素振りを見せると、彼の成績はすぐに下がってしまう。脇山も勉強より、恋愛の方が大事だという考えに傾いてしまったのだ。
このことから、勉強して良い大学に入ることの価値が薄れ、人を測る物差しが一つではなくなっていることが分かる。ただし、一人称で語られている小説なので、負け惜しみから、その価値観を他人より強く、秀美が持っているだけともいえる。今もそうだが、いくら価値観が多様化しているとはいえ、「学歴で人の価値を測る」といった「世間」の常識は、少なくとも存在していたのだ。
次に秀美が批判したのは、高尚な悩みにふけっている同じサッカー部に所属する植草だ。彼は哲学的な思想にふけり、いかにも自分は不幸であるといった表情をいつもしている。しかし、秀美にいわせれば、そんなことを考えるのは幸せな証拠で、体調が頗る悪かったり、射精の瞬間にそんなことは考えないだろうという持論を展開する。実際、植草が足を骨折した時に、秀美が哲学的な質問を投げかけるが、植草は「そんなことより、足が痛い」と訴える場面によって、秀美の持論が実証される。
1980年代の高度消費社会の中で、他人と自分を差異化するため、自分探しをする若者が増えた。この場面では、小難しい考えをすることで自分探しをする友達を馬鹿にするという立場に秀美が立って、それを暴いたというわけだ。しかし、この作品の読者がここで気付くべきなのが、少なくとも秀美自身も「高尚な悩み」にふけっているということだ。小説の冒頭から、秀美がしていることは、他人の価値観を否定し、自分の価値観が他人とは違うことを確認していく作業だと言い換えることができる。結局、秀美の価値観も、誰かと違う自分になりたいという当時の高校生の考え方に端を発しているのだ。
そして、秀美が「誰かと違う自分になりたい」と思っていることを直接的に批判される場面がある。それは、秀美が、告白してきた女の子を振る場面で、女の子からこんな言葉を投げかけられる。「本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持ってるって思ってるくせに。」、その言葉によって、秀美は初めて自分の自意識の高さに気付く。若さゆえに真っ直ぐ、反抗的な考えを周りの人に押し付けることができ、そんな自分に酔っていた秀美。年上の彼女もいるし、他人と違って自分は特別なんだと思っていた彼には相当突き刺さる言葉だったのだ。
作中に、ニュース(世間)の価値観ではなく、自分の価値観を持とうと秀美が意識し始める場面がある。秀美はワイドショーを観ていて、誰かが決めた常識や倫理に反する意見を言ってはいけないという風潮に疑問を感じる。誰かが決めた常識や倫理とは、「歌手と女優が二人で朝帰りをすれば怪しい」、「酒乱の夫が家族に殺されてしまってもまぁ仕方がないのかもしれない」、「母親が子供を殺せば言葉を失う程の罪悪だ」などである。もし、テレビのコメンテーターが「子供を殺す事情が何かあったのでは」などと言うと、大変な騒ぎになってしまうだろう。そのことが、秀美は不思議で、個々人の価値観を持ってもいいのではないかと考えてしまうのだ。
ここでは、誰もが同じ価値観を持つことに飽き飽きする秀美が描かれている。価値観の乱立する時代をつくっていく若者の思想を切り取った一場面である。こういった若者たちの思想が、この時代にできた新興宗教やサブカルという文化を生み出したのかもしれない。
いつも大人や社会に反抗的だった秀美だが、「世間」のルールの中で生きていくことからは逃げられない。物語の終盤の高校三年生の夏、ついに秀美は大学受験することを決意した。この小説のタイトルにあるように、「ぼくは勉強ができない」と胸をはって言い、勉強を頑張る同級生を散々馬鹿にしてきたのにも関わらず、大学受験をするのだ。主人公かつ語り手である秀美が、「世間」の流れにすっぽり飲み込まれる様子がありありと読者に提示されるわけだ。
この小説の中には「価値観」という言葉が非常に多く登場する。作中で描かれた1980年代を生きる当時の若者達は「価値観」が乱立していて、何を信じても良い分、何を信じれば正解なのか分からなかった。読者は、たくさんの価値観が溢れる物語の世界に誘われることで、当時の若者の気持ちに、時を超えて共感することができるのだ。