【ショートショート】ユウウツさん
いつの頃からだろう。気づくと一日が終わっている。毎日仕事に追われ、疲れきって帰宅をすると、あとは眠るだけ。だから家も荒れ放題だ。
一人暮らしのボクにとって、大きな問題はない。だけど、時々ため息が出るのも事実である。
仕事も中堅的な立場になってきて、数年前に比べたら、仕事の量も質も格段に上がってきた。良い言い方をすれば、やりがいがある。しかし本音を言えば、疲れるなぁ・・・・・・もある。仕事が嫌いというわけではない。ただ、時々行き詰まって、ため息が出る。それがボクの日常だ。
その日もいつものように職場へ行き、仕事をしていた。ただ、普段と違うことが一つあった。それは、急に休みの人が出てしまい、サポート役で追加の業務をしたことだ。
どんなに忙しくても、頼まれると断れない性分だ。これがボクの仕事量を増やす一つの要因であることは間違いない。
慣れない作業も加わり、いつも以上にバタバタしていた。
そんな中、同僚のヤギタがボクの元にやってきた。
ヤギタとは部署は同じであるが、普段はほとんど関わりがなく、挨拶程度しか交わさない仲だ。そもそも、いつも下を向き覇気がないヤギタのことがあまり得意ではない。
「これが必要な書類です・・・・・・」
ヤギタはボソボソと言いながらボクに書類を手渡した。
慌ただしい中、やる気がなくなるような口調で話しかけてくるヤギタに、若干の不快感を覚えつつ、なるべく態度に出すまいとボクは勢いよく書類を受け取った。
追加の業務にペースを大幅に乱されつつも、何とか無事に一日を乗り切った。
しかし、その日を境にボクは何となく、体調が優れなくなった。決して寝込む程ではないのだが、首から肩にかけてズーンと重く、頭がボーとする。何だか気が重く、憂うつなのだ。
風邪でも引いたのかと思ったが、熱もない上に喉も痛くないし、鼻水が出るわけでもない。いろいろと考えを巡らせて、そういえば、最近はろくに遊びにも出かけていないことに気がついた。
休みの日も家に引きこもり、もっぱらネットゲームをして過ごしていたのだ。その積み重ねで肩こりが酷くなってしまったのかもしれない。気分転換を兼ね、次の休日には久々にマッサージでも受けに行ってみるか。
そう思って迎えた週末。何度か行ったことのある馴染みのマッサージ店にボクは足を運んだ。
これで心も体も軽くなるに違いない。だが、ボクの確信に近いその期待は簡単に打ち砕かれた。
首から肩にかけての重みは楽になるどころか、さらに酷くなっているのだ。しかしクレーマーみたいになるのが嫌で、ボクは何も言わずに支払いを済ませ帰宅した。
体調は戻らぬまま週末は過ぎていき、また一週間が始まった。いつものように出勤したものの、なかなか集中できない。首から肩にかけての重みは、より一層酷くなっている気がする。頭も回らず、小さなミスが積み重なっていく。ため息が止まらず、どんどん憂うつに支配されていく感覚だった。
無情にも日にちだけが過ぎていく。首から肩にかけての重みは、日に日に酷くなり、あまりの重さで、ボクは下を向いて歩くようになっていた。
休日の度に、評判の良いマッサージ店を新たに開拓していくものの、一向に改善はせず、もはや諦めムードが漂う。
もう、この店で最後にしよう。そう心に決めて入った店は、なんとも昭和な雰囲気が漂っており、初めて入るのは少しためらうような店構えだった。だが、今のボクからしたら、そんなことはどうでもいい。
入店してみると、意外にも中は今どきの感じで、お店の人も弾ける笑顔が印象的な若い女性だ。アンバランス感が否めない。それとなく聞き、どうやら、おばあちゃんから引き継いだ店であることが分かった。
「どうですか。少しは楽になりましたか?」
マッサージを終えて聞かれたボクは、つい本音を漏らしてしまう。
「いやぁ、変わらないですねぇ・・・・・・」
ハッとして、「でも、いつものことなので・・・・・・」と慌てて付け加えたボクの言葉などさえぎる勢いで、店員さんはボクに問うた。
「それは申し訳ありません、力加減はいまいちでしたか?」
「そんなことはないですよ。でも、どんなにマッサージを受けても良くならなくて・・・・・・気持ちまでも憂うつですよ・・・・・・」
ごにょごにょと言い訳をするボクに、店員さんはハッとしてこんなことを言い出した。
「もしかして、ユウウツさんではないですか」
彼女が言うには、ユウウツさんは気弱な人が大好きで、居心地の良い人の肩にしがみつき、住みついてしまうらしい。そのため、首から肩にかけてズシッと重みを感じるものの、マッサージなどでは改善することはない。そして、その人から安らぎを吸い取り、憂うつな気持ちを大きくしていくのだそうだ。
店員さんはふざけている様子もなく話していたが、あまりに現実味のない話なのだ。ボクは愛想笑いでその場を取り繕い、そそくさと店を出た。しかし帰宅後、驚くべきことが起こる。
異変に気づいたのは、洗面所の鏡を見た時だった。ボクの肩に何かがしがみついているのだ。深緑色の手のようなものがボクの首回りに巻き付いているものの、その全体像は前からは見えなかった。恐る恐る体を横に向け、確認してみる。
すると、ギョロリとした飛び出た目に、やたらと大きな頭の生き物がボクの背中にしがみついていた。人間でいうところの二、三歳くらいのサイズ感である。お世辞にも可愛いとはいえない、むしろ薄気味悪い出で立ちだ。
ボクがジロジロ見ていても、そいつは一切気にしていない様子で、じっと斜め下を見たまま動かない。
どうしていいか分からず、しかし何もせずにはいられず、ボクはさっきのマッサージ店へと走っていた。とにかく話を聞いてもらおうと思ったのだ。
勢いよく店の扉を開けると、先ほどの店員さんが目を丸くしてボクを見た。そしてボクは前置きを一切することなく、我が身に起きたことを一気に話した。店員さんはそんなボクに迷惑がる様子もなく話を聞き、店の奥へと案内してくれた。
そこは居住スペースになっているようで、生活感ある空間だった。
店員さんは食卓テーブルと思われる椅子を軽き引き、ここでしばらく待つようにと言った。そしてボクを置いて、さらに奥にある部屋へ入っていき、戻ってきた時には杖をついたおばあさんと一緒だった。おばあさんはボクを見るなりこう言った。
「話は孫から聞いたよ。君には、ユウウツさんが住んでいるようだね」
不安で押しつぶされそうなボクに、おばあさんは丁寧に話をしてくれた。
どうやら住みつかれた本人がユウウツさんの存在を知ることで、実際に見えるようになるらしい。ユウウツさんは気弱な人から気弱な人へと住みかを変えていき、手と手が触れ合うことで移住していくそうだ。
「最近、誰かと手と手が触れるようなことはなかったかね」
おばあさんからの問いかけに、僕は少し黙った後、
「お恥ずかしながらボクには彼女もいませんし、誰かと手が触れ合うことなんて・・・・・・」
そこまで話をして、ボクはハッとした。
そういえば、ヤギタから書類を受け取った時、勢い余って手と手がぶつかったのだ。
ボクの表情を見て、おばあさんはコクリと頷き言った。
「思い当たることがあるようだね。おそらく、その時にユウウツさんが住みつき始めたのだろう」
考えてみれば、最近のヤギタは以前よりも元気が良さそうだった。いつも下を向いて歩いていたのに、いつの間にか背筋が伸びていた。
ボクの中で辻褄が合い、妙に納得できた。それと同時に、ヤギタへの怒りに似た感情が沸き上がってくる。
ボクはヤギタに、ユウウツさんを返してやりたいと思うようになった。元はと言えば、ヤギタに住みついていたのだ。それが妥当であろう。
その日から、ボクはいかにヤギタと接触するかに労力を注いだ。
ヤギタとは席も少し離れており、普通に過ごしてしまうと関わることはほぼない。しかし変に動き回るのも怪しまれる可能性がある。そもそもヤギタがユウウツさんの存在に気づいていたかも分からないのだ。もしも気づいていて、わざとボクを狙ったのであれば、ボクが近づけば警戒するだろう。
ヤギタがトイレに行くのを見たら、ボクも後を追い、タイミングを見計らった。しかし、手と手が触れるような状況を作り出すことはなかなか難しい。
思い通りに進まぬ現実を前に、より一層ため息の回数が増える。仕事のミスもさらに増え、負のスパイラルに突入だ。
ボクは、どうすればヤギタの手に触れられるかを考えながら、デスクで事務作業をしていた。ぼーっとしていたからか、持っていたペンをうっかり落としてしまう。コロコロとペンが転がっていくのを力なく見送った後、拾いにいくためにボクは重い腰を上げた。
すると、ボクより先にサッと拾ってくれた人がいた。それは、たまたま居合わせた、長い黒髪が印象的な他の部署の人だった。彼女は伏し目がちに拾ったペンを差し出した。名前も知らないその人が気弱そうであることは、その仕草からも、そして表情からも見てとれた。
「ありがとうございます」
そう言ってボクは受け取った。と、その時、相手と軽く手が触れ合った。その瞬間、まるで霧が晴れていくかのように心も体も軽くなった。
急いでトイレへ向かい、鏡で確認してみる。すると、ユウウツさんの姿は跡形もなく消えていた。
悪いことをしてしまったな・・・・・・新たな住みかとなってしまったのであろうあの人に申し訳なさを感じつつも、嬉しさの方が勝ったのが本音であった。
我がことながら、人間とは身勝手なものだとつくづく思う。ヤギタへの怒りもスッと消えてしまい、気づけば日常の生活を取り戻していた。
あんなにユウウツさんのことで悩み、恨めしい感情を持て余していたボクだったが、数週間もすれば思い出すこともなくなるくらい遠い記憶となり、この平和な日々がこれからも続いていくと根拠のない自信が湧き上がっていた。しかし、そうではなかった。
それは通勤途中で駅を出た時だった。新規オープンのお店のチラシを受け取ったのが運の尽き。勢い余って手が触れた。その瞬間、あの首から肩にかけての重みが蘇った。
ボクはズシッと重くなった体を何とか立て直し、ため息混じりで職場へ向かうのであった。