第7回 レポートと筆記試験の違い
大学あるある話(エピソード)
リアクションペーパーの話は既に紹介した。今回は、レポートと筆記試験の話をすることにしたい。一応の一般論として整理しておくと、昭和や平成の大学生の場合は15回の授業回数を経て、16回目に期末テストとして筆記試験があるのみというのが一般的だった。つまり、授業に出席していようが欠席していようが、担当教員の学説を真に受けようが反発しようが、その学期(現在ではセメスターと呼ぶところが多い)の成績評価は筆記試験の出来次第だった。一方、レポートは一般教養科目の担当教員が課すことが少なくなく、かつ、卒業論文までの要求はなかったものの、講義をふまえて関連文献を読んでその内容も含む形で1万字程度のレポート提出が課されることが普通だった。
ところが、令和の時代になる頃からレポートの位置づけが変化し始めた。期末試験一発での合否判定に疑義が提起され、日頃の授業態度も査定せよという神の声が大きくなったため、5千字程度のレポートを課した上で期末試験を実施する授業や、筆記試験を廃止して2万字程度のレポートに替えるというふうに、筆記試験の実施自体が敬遠されるようになり始めた。他方で、従来の期末試験の姿勢は教科書等を持ち込ませず、その時点での自分の頭の中の理解で対応せよというものであったが、持ち込みができる筆記試験の方が大勢を占めているように思われる。キツイ言い方をさせてもらうと、勉強しない受講生でも合格点である60点を獲得できるように教員側が優しくなったとも言えるし、学生と教員の間の「ナアナアの関係」にメスが入った結果とも言える。
いずれにせよ、私が大学生をやっていた時代と比べると、格段に甘やかさなければならない時代におけるレポートと筆記試験であることは間違いない。このようなレポートや期末試験について、NくんとOさんに登場してもらうことにしよう。
N君の場合「徹夜して3000字も書いたのに」
Nくんは、春学期が残り1ヶ月ぐらいという頃に実施する学習相談期間における指導の中で、ある専門科目の講義について私に対して次のように説明していた。曰く、期末は筆記試験でなくてレポートであること、そして3000字以上で作成せよという条件しかない。したがって、楽勝科目・楽単であり、不合格になることはないと(の見通しである)。
その講義担当する教員との面識はなかったものの、余りにハードルが低すぎる。そのため私は、出席数を含む平常点の設定や学外学習の課題の有無など想定できるハードルについてNくんに確認したが全く無いとの回答だった。したがって、私は「ナアナアの関係」が残っている講義なのだろうと分類していた。ところが、秋学期が始まる直前すなわち、春学期の成績発表を受けて直後であろう、Nくんが急に電話を寄越して来て、明日会って欲しいというので時間を設定して迎え入れたところ、冒頭の発言だった。
申し訳ないが、そもそも3000字程度のレポートならば徹夜は不要である。推敲も含めて2時間、かかったとしても3時間の仕事量である。そして、本人に持参させたレポートを見せてもらって愕然とした。断っておくが、ChatGPT類を利用していたからではない。見出しがない、脚注が不統一である、巻末に参考文献一覧がないのに加え、その文章を読むとツギハギだらけで、関係する幾つかの文献資料からそれらしいところを書き写して完成させたものだろうと一目で分かるぐらい酷かった。
なるほど、日頃から勉強していなかったと強く推察されたから落とされたのだろう。そこで「教室に居るだけで授業に参加していなかったんだね。それを見透かされたんだよ。」とNくんに告げたところ、Nくんは、ガイダンス時の成績評価の仕方からすれば条件を満たしているから、これは担当教員が自分を嫌ってワザと不合格にしたのだと反論した。こういう場合は、そのように言える根拠を教えてと学生に促し誤解を解消していくのが正攻法の攻め方だと私は考える方なのだが、レポートとは言えない代物を読まされた事とそれを徹夜で仕上げたと恥ずかしくもなく言えるNくんの為にならないと判断し、カミナリを落とす攻め方をした。
では、Nくんはどうすれば良かったのだろうか。
Oさんの場合「小さなミスだから見逃してくれてもいいのに」
Oさんは期末試験の採点済みの答案を携えて私の研究室に来室した。「御蔵先生、採点を見て減点が多くて友人よりも点数が低かったです。内容は同じなのに駄目ですか?」誤解なきように予め注釈をしておくと、内容が同じというのは「問題に対して論点を設定し、その論点の枠組みで問題の答えまで導く流れが同じ」ということであり、友人と瓜二つの答案を作成したわけではない。これは通常コピペという不正行為である。
Oさんの今回の答案は誤字のミスが二桁だった為に10点以上を減点せざるを得なかったものであった。同じ誤字なのだから1点減点で十分だろうと思われるかもしれないが、それだけ間違えるという事は根本から理解できていない証拠なので見過ごせない。ちなみに、ある内部進学制度を設ける大学付属の専門学校においては、内部進学者向けの試験採点では誤字は3カ所まで減点とするという謎のルールがあった。誤字は些細なことであり、それよりも英語が出来れば良いという理由からだそうである。しかし、この理由自体について現在でも御蔵は納得できていない。脱線しないうちに話を戻そう。
ところが、Oさんが不満を抱えていたのはそこだけではなかった。1箇所だけあった専門用語(国政調査権を国勢調査権と書き間違え)の誤字についてで、そこで私が3点も減点したことが不満だったという。小さなミスだと本人は主張したが、その誤字自体が減点レベルの重さをまったく変化させている。そして教科書の持ち込みを可能としている環境だったから尚更に見過ごせなかった。皆さんは、もし人生の大事な場面で自分の名前を書き間違えられたときに、ムッとせずにいられるだろうか。ちなみに、Oさんの例ではないが、パソコンで入力したときに誤入力されたものであって自分の責任ではないと反論する学生も徐々に増えている。その入力をしたのは自分自身なのであるから、自分の責任でないと自然と反論できるその精神構造は幼稚すぎると私は思う。
とはいえ、この時点までのOさんは持ち込み可の筆記試験の怖さを知っていなかった。だからこそ、冒頭の言葉が出てきたのだろうと思う。では、持ち込み可の筆記試験の怖さとは何なのか。
所見
そもそもレポートとは、その時点までの先行研究を整理し(=自分の現状把握を文字化し)、その理解を基にして自分で設定する(あるいはレポート設定者が提示する)課題について分析し、結論を導いたり私見を論じたりする報告書である。先行研究自体が一般に7、80年程度を経ていることが多いから、その整理をするだけでも骨の折れる作業である。さらにその整理から自分の理解を文章化し、それをふまえて課題の設定と結論・答えを導くまでの論理的文章を作成させられるのだから、基本的にレポートは筆記試験と違い教場試験に適さない。もちろん、海外の例で言えば、試験教室の出入りを自由にして半日程度の試験時間を設定しての教場試験が実施されるところであれば、筆記試験でなくレポートを課すということも有り得る。ここは日本の大学の場合を想定するから、日本の大学において課されるレポートに準じて整理しておくことにする。
先ずはそのレポート課題における一般的な見解を探すために図書館等の文献資料を検索し読み込んだり、担当教員が指定する教科書や参考書等から関連する部分を確認し読み込んだ後に、反対意見や異なる見解がないかを調べるところから始まる。いわゆる先行研究の読み込みである。この時点で徹夜仕事になると思いがちであるが、そもそも徹夜すればこの作業ができるのかと言えば、できる筈のない作業である。なぜなら図書館が24時間稼働することは令和の時代には皆無であり、物理的に不可能だからである。したがって、たとえば週間スケジュールの中で細切れ時間を活用して文献の貸し出しを受け、すきま時間を活用して読み込み、関連部分をまとめることになる。
次に、設定された課題に対する答え・私見を用意するわけであるが、ここでは逆算の発想すなわち答えから問いへと遡って構築していく思考が求められる。その答え・私見を導くことになる先行研究の見解が無ければ、その答え・私見を導けないからである。そうすると、作成するレポートの目次構成や文章構成をシュミレーションする時間が別途必要となる。そして最後に、校正の作業すなわち、作成した下書き原稿を基に、レイアウトや脚注を補足し、全体の統一性を確認した後に提出することになる。
一方、筆記試験とは、所定の時間(例えば60分とか2時間とか)の中で、同じ環境の下で一斉に受験することによって、その時点における各自の理解度を数値化して評価するものである。したがって、いわゆる「同じ環境」を用意するために、原則持ち込み禁止とする筆記試験が一般的であった。何も持ち込めないならば、頼れるのは自分の頭脳・頭のみであるから、各自の理解に基づいて回答される。そのため文字どおり各自の理解度が答案に現れることになる。
例えば、60分の試験時間の筆記試験であれば、日本語の文章を手書きで60分間書くとすると、一般には600字から1200字の間ぐらいであると言われている。その為この字数が一応の目安となる。一方、2時間の試験時間の筆記試験であれば、そこでは倍の字数すなわち1200字から2400字程度が目安とされるのかと言うと、実はそうではない。試験開始時点で全員に示される課題を見て、課題の意図を汲み取り、答案の構成を考えて書くことが求められているため、1500字弱の回答を作成したとしても評価の対象となる。要するに、試験時間の長短にかかわらず課した課題に対して各自が導いた回答までの論理(的思考)を、読み手がその脳裏で再現できるように書き抜くことを求められるのが筆記試験なのである。
ポイント
Nくんはレポートとは呼べない代物を提出し不合格となってしまった。それでは、Nくんはどうすれば良かったのだろうか。Nくんに示された課題条件に照らして、そのポイントを整理しておくことにしよう。予め断っておくと、大学生一人ひとりは、次のことを自分で判断し行動できるように自然となる必要がある。
3000字以上ということだから、少なくとも3000字の字数が必要である。レポートに書くべきポイントは、課題に対する「先行研究」であり、その課題を示した担当教員の「意図をふまえた問いの設定」を説明し、その問いから導いた自分の「答え・回答」と、その回答を導くことのできる「論理や事例・根拠」について作文することである。つまり、①問い、②先行研究、③論理、④結論という4つの部分から構成することになる。
そうすると、②の部分を充実させておけば、どんな課題であっても適応しやすくなると期待できるから、各回の講義において担当教員が取り上げる内容やテーマについての先行研究を事前に整理しておくことが合理的な行動であると言えよう。そして、少なくとも各回の講義の内容を整理しておきさえすれば、そこそこの先行研究の蓄積を得ることができるはずである。この復習の時点で図書館等において関連する文献資料を読み込み、追補しておくと申し分ないであろうが、「そこそこの先行研究の蓄積」があれば課題が提示された後に取り組んだとしても徹夜をすれば対応できるかもしれない。
ポイントは、担当教員の各回の講義後に、その講義の内容を整理整頓したかという点である。Nくんが徹夜して3000字しか書けなかった根本の原因は、ここにある。普通の勉強をしていなかった。
一方、Oさんの場合はどうか。持ち込み可の筆記試験と持ち込み不可の筆記試験の異同に照らして整理しておくことにしよう。
持ち込み不可の筆記試験の場合、それぞれの受験者が頼れるものは記憶、自分の頭脳しかない。そして人間の記憶は曖昧なものだから、誤って記憶してしまうと「誤っている」という自覚のないまま発信してしまう。例えば、「京都県京都市」と書いてしまうとしたら、誰もが「京都府京都市」が正しいと気づくであろうが、これは都道府県の成り立ち・構造を理解していなければ正確に記憶できないことに由来している(某放送局のスタッフが日本人でなかったのではないかとの疑いが生じた事が過去あったが、問題はそこではないだろう私は考える)。そのため、持ち込み不可の筆記試験は、それぞれの受講生に「考え抜く力(思考力)の強化」を暗黙裡に要求していると言える。一方、持ち込み可の筆記試験の場合、それぞれの受験者が持ち込んだ文献と自分の記憶の両方を頼ることができる。そうすると、曖昧な自分の記憶については持ち込んだ文献を参照して正確に発信できるわけであるから、関連する箇所はどこにあるかを思い出すことが求められる。そして、「どこに書いてあったか」を分析する力(分析力)があるからこそ思い出せる。そのため、持ち込み可の筆記試験はそれぞれの受講生に「分析力の強化」を暗黙裡に要求していると言える。
したがって、分析力の強化が目標なのであるからOさんの「小さなミスだから」発言は当然のように思われるかもしれない。しかしながら、「思考力」と「分析力」だけでは③論理に対して十分に対応できない。これはレポートにおいても共通するところであるが、論理的思考の修得は学士号取得者の最低条件であると意識しておいてよいと思われる。
ポイントは、言葉と言葉がつながれることで一定の論理になるというコミュニケーションの基礎を軽く見ていないかという点、すなわち言葉の重みに対する自覚如何にある。Oさんが持ち込み可の筆記試験で露呈した事は、言葉に対する軽視であり、それは他者に対する思いやりの欠如にまでつながりかねない社会的人間としての致命的な欠点であった。
タスク・課題
レポート課題を想定したタスクとしては、授業ノートをとることに尽きる。とにかく講義の内容を書き留めて、時間を見つけて整理し、後日自分で再確認できるようにすることである。科目ごとに大学ノートを用意するのが無難かもしれないが、ルーズリーフとバインダーで代用することも十分に可能であろう。問題は写メや録音、録画に頼り切って授業ノートを自分で作成しない場合である。写メや録音、録画のデータを管理できれば大学ノートやバインダーの場合と大差ない代用も十分に可能であろうが、十分に対応できている学生に私はまだ会ったことが無い。したがって「とにかく書く」ことをおススメしたい。
なお念のために記しておくと、書き損じや書き誤りは消さないで残しておくことが大切である。振り返るときに自分がなぜ間違ったのかをハッキリと確認できる唯一無二の証拠だからである。そのため書き直しをしたいときは一重取り消し線を引いて余白部分に書き直すことを、そして消したいときは二重取り消し線を引いて余白部分あるいはその続きに書いていくことを私は勧めている。
一方、筆記試験を想定したタスクとしては、日本語の文章を書く練習を繰り返すことに尽きる。一文で終わる日頃のやり取りについて、相手の名前を書き、自分を名乗り、伝えたい内容と説明するというふうに「省略せずに」書く意識を持ち、それを習慣づけることを目標にしてみよう。友人知人に対して「いい子ぶる」のが嫌であれば、大学事務や教員とのやり取りの中で実践を繰り返せばよい。最初の頃は相手の返信に書いてある文面を写すように書くことを続ければよい。そのうち自分の言いたい事を省略せずに日本語の文章として書けるようになっていくはずである。
要するに、楽をしようとせず、普通に勉強しさえすれば良いのである。蛇足にすぎないが、楽ができないから難しいというのも幼稚すぎると思う。