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第4回 講義の受け方
大学あるある話(エピソード)
大学における講義には幾つかの型・パターンがある。大きく分けると4つ、すなわち教室で教員からの講話を通じて学ぶ座学型であり、同じく教室ではあるが共同学習や模擬裁判などの議論を通じて学ぶ実践型のほか、実験室を利用する実験型である。これらの他に、最近では学外のフィールドワークを組み合わせて学ぶ体験型も徐々にではあるが確実に増えている。問題は、これらのパターンにおいて学ぶ者が主体的に取り組めるようにするには何が必要かを見定めることだろう。
座学型においては学ぶ者一人ひとりが予習や復習をどの程度まで行なうかが重要であり、実践型は実践中の記録とその復習の徹底が座学型と比べて重要になると一般に言われる。また、実験型においては座学型と実践型で行なう行動と比べその行動の精確さが要求される。最後に体験型においては予習の濃密さが学習効果を左右すると言われている。なお、いずれのパターンでも「どの程度まで行なうか」は実際の担当教員が展開する講義の質や量に依存するから、実際に講義を受けてみて肌感覚で判断しなければならない。
そこで、今回は講義の受け方について、一般的でない教員に出会って困惑し相談に来たHくんとⅠさんに登場いただくことにしよう。
Hくんの場合「教科書を購入したら合格と言うのですが…」
Hくんが相談に来たのは他大学の教員控室で、他の同僚の先生たちと談笑していたときであった。Hくん自身は入学当初から弁護士になりたいと意気込んでいた真面目くんで、その振る舞いも好感がもてることは同僚達と一致していた。そのHくんが眉間にしわを寄せ深刻そうな顔をしていたので一同、何事かと身構えたのを今でも覚えている。
「ナガトモアキラ(仮名)先生の授業なのですが、授業開始時点で教科書を入手できず学期の半ばまで図書館で借りて対応していた自分も悪いとは思うのですけれども、『シラバスに指定している教科書を購入したら合格させる』と言うんです。これって、どういう意味で理解すれば良いのでしょうか?本当に額面どおりに受け取って良いのでしょうか?」
予め言っておくと、Hくんに落ち度はない。授業開始時点で教科書を揃えておくべきことは、もちろん望ましい。しかし、諸般の事情からそれが困難な場合もないとは言えない。但し、期末試験などで教科書等の持ち込みを可とする場合もあるので、早期に入手しておく方が無難かもしれないが、それは自己責任として処理されることであって、それ以上の深刻な問題になることはない。ちなみに、少なくとも第1、2回の講義で教科書の用意がない受講生が居ることを前提に教員はその準備をしている。強いて言うとすれば、指定の教科書を購入したら合格させると言った(という)ナガトモ先生の言動の方である。
教科書を購入したら合格させるという言動を額面どおりに解釈するならば<教科書の購入と引き換えに単位を与える>という意味そのものなのだから、それは実質上単位をカネで売る行為そのものである。教員としての適格を欠く行為である。同僚達の間でも、ナガトモ先生の振る舞いについては眉間にしわを寄せることが多いのだが、その先入観を取り除いて敢えて肯定的に解釈するとすれば、教科書のみを持ち込み可とする期末試験を実施するから用意しておきなさいということであったのだろうと思われた。ちなみに、教科書の持ち込みを可とする筆記試験であっても、書き込みを厳禁とする場合がある。その場合はノート類等の持ち込みも可とすることが少なくないはずであることを申し添えておく。
Iさんの場合「参照する部分を書き写したら合格って…」
Iさんが遭遇したヤスアキヒロシ(仮名)先生の場合も、別の意味で奇天烈な相談事であった。Iさんは要領の良い学生で、指示する作業は締切を守って行動できるし、将来に向けてのキャリアプランについても自主的に取り組める真面目さんという評価で同僚達とも一致していた。そのIさんが質問に来たのは私の講義が終わった後の、教壇でのことである。
おもむろにヤスアキ先生が教科書として指定している図書を出してきて、幾つか付箋が貼ってある中で赤色の付箋の部分を開きながら「先生、来週が期末試験なのですが、授業で参照した部分を答案用紙に書き写して文章にすれば合格できるっておっしゃったのですが、これって信じてよいのでしょうか」。
おそらく信じてよい事実だろうと内心では感じたが、その場では、出題される問題の意図を理解して該当箇所を確認し、整序のとれた日本語の文章にしなければ合格点にはならないと思うという趣旨の話をしておいた。とはいえ、ヤスアキ先生の言動については正直なところ大きな問題がある。前述したナガトモ先生の程度ではないが、教員としての適格をやや欠いている(注:日本語を母語としない教員で、かつ、学問を教授するという大学教員としての自覚が希薄な人が選択しがちな方法が「教科書の丸写し」である。日本語が不得手な点は同情する余地がないわけではないから、本文では教員としての適格をやや欠くとした)。なぜならば、大学教育において求められる水準ではないからである。
いわゆる教科書の丸写しで良いとするのは、せいぜい小学生までの水準である(小学生に対して失礼かもしれない)。極端に譲歩するとしても、それは日本に来日して即日本語による高等教育を聴講せざるを得なくなった留学生に対してのみ情状酌量の余地があるかもしれない程度のことである。高等教育を担う大学において、その大学で学ぶ学生に対して左にあるものを右にその全部を書き写せば合格であると堂々と伝えられるる教員は、大学教員としての資格がないと私は考える。なぜなら、大学教育においては少なくとも「該当箇所をつなげる技術=論理的思考」と「それを作文する技術=論理的文章・表現の作成」を前提にしたうえで自分の考えを述べることが、学ぶ者一人ひとりに課せられる課題だからである。そのため、期末試験などにおいて担当教員は「論理的思考」「論理的文章・表現」をどの程度学修したかを評価していると言って良い。この視点に照らしてヤスアキ先生の言動を評価するならば、大事なポイントを外していると言わざるを得ない。本人は、露顕したとしても「私の不徳の致すところ」との言葉で済ますのだろうが。
所見
講義の受け方については、「初年次教育」においても常に強調される部分である。高校までと違って教科書とされるものが一律でないから、巷の書店で販売されている問題集や学習参考書などが全く通用しない。そのうえ何か「正しい教え」があるわけでもないから、どうすれば予習できたかことになるのかが分からない。要するに、高校まで通用してきた「予習―授業―復習」という基本的な学び方では対応できないように誰もが一度は感じてしまう洗礼である。
しかしながら、実は基本的な学び方で対応できる。より正確に言えば、基本的な学び方を基礎にして、それぞれの担当教員のやり方に適応させていく技術を学修することが重要となる。まず、予習の段階においてはシラバス等から講義計画において予定されている内容を確認する。教科書の該当箇所を読んでおくように指示がある場合は、とりあえず読む。指示がない場合はシラバス等の講義計画における叙述から推測して関係する資料等の知識を自分の中にインプットしておく程度はやっておくべきである。
次に講義の段階においては、担当教員の癖・習慣を把握しながら、<予習の段階で理解した内容との異同を確認>するように学修を進める。担当教員の一言一句をノートに書き留めようとするのは無駄であり、自分が重要であると思った言葉であったり、気づきをメモ書きする程度で問題ない。最近では板書されたものを写メで記録したり、ICレコーダーで録音したりといった手段を活用する受講生も少なくない。これらの手段が無駄であるとは言わないが、予習の段階で理解した内容との異同を自分で確認しないのであれば無駄=学修したフリでしかないことを自覚して欲しい。大学との往来の中で聞き直すぐらいの習慣づけをしておくと良いだろう。
最後に復習の段階においては授業の内容をふりかえり、その内容をまとめることすなわち、その文章化をその日の内にやっておくことが望ましい。自分の理解が追い付いていないところは図書館で関連書籍を読み直して補充するなり、担当教員に質問するなりして早めの確認に努めたい。同じ講義を受講している同級生と意見交換することによって文章化しておくという方法も、書き留める段階で自分の言葉で文章化するのであれば、手段としては正しい。学食で食事を摂りながら意見交換するとか、大学帰りの途中で居酒屋談義に花を咲かすなど、大学生ならではの工夫をしてみると良いだろう。
ポイント
「大学の大衆化」「即戦力としての新卒」等というふうに学外からの要請に応えるべく、大学という(時間の流れとしては一般社会の流れと比べて緩い)空間の中へと多くの「実務家教員」が招聘され、今日の状態が生まれている。一部の実務家教員は研究者としての能力も非常に高い。一方で、大学教育に求められる水準や内容について理解しないで担当する教員がいないわけでもない。これは研究者にも言えることであるが。そのため各大学は毎年のようにFD教育を実施して教育の質の確保に努めている。
以上のような現在の大学という空間の中で求められていることは、「講義」という空間を媒介にして、教員・受講生・職員が一体となって「あるべき講義」を作り上げていく仕組みである。そのため奇妙な感覚を覚えた際は、受講生であってもその検証を第三者に速やかに要求することが求められていると意識したい。今回紹介したHくんやIさんは、その例であると思う。ちなみにナガトモ先生の件は複数年にわたって学生評価アンケートで同様の指摘があり、本人が本務校の都合を理由に退職されたと伺っている。一方ヤスアキ先生の件について私の元に伝わってきた噂話によると、学生評価アンケートを通じて肯定の声がまったく見られない一方で、受講生側から教員の交替を求める声が確認される状況について大学教務部門も把握しているとのこと。そのため数回連続し状況が改善されないならば組織として配置替えを検討せざるを得ないと注視されているそうである。教員・受講生・職員が一体となって講義を作り上げる雰囲気は確かに現在の大学には定着し始めていると言えるかもしれない。
もちろん「怠けたい・楽がしたい」人は検証を求める声を飲み込んで黙っておく選択肢を選ぶかもしれない。あるいは逆に「こうすべきである」と教員に命令する言動を選ぶ人もいるかもしれない。いずれも有り得る状況であろうが、いずれも極端であるし、学修者主体の教育とは程遠い。なぜなら、合格・単位を獲得するという目先の利益に執着しており、大学における学びという本来の利益が見えていないからである。ちなみに、虚実のハラスメント被害を訴えて単位取得を企む学生がいることも教員間で噂として流れてくることはあるが、講義の状況把握、当人とのやり取りを記録整理している教員が負けた例は寡聞にして私は聞いたことがない。
◆追補◆
これは日本語を母語としない留学生が主な対象となると思われるが、教室に着席して授業時間中その空間に滞在していれば授業を受けたことになるわけではない。確かに聞き取れない日本語が流れて来て苦痛しか感じないかもしれないが、そうだからといって目線を落してスマートフォンでネトゲやSNSで遊んでいて良いわけではないし、遠方の友人たちとチャットをして過ごして良いわけでもない。その周囲で迷惑を受けている受講生がいることに気づけるかどうかがポイントとなる。特に留学生の比率が高い授業においては、その周囲も同じ振る舞いをしていることが少なくないので迷惑を掛けていると気づきにくくなる。そのため次の言葉を発するときは、自分に責任・原因がゼロであることを再確認したうえで担当教員へ投げて欲しいと思う―「私は『きちんと』授業を受けていました。納得がいきません。」
◆◆◆◆
タスク・課題
大学における学びの本来の目的・利益は、学問を修得するところにある。但し、高校までと違って唯一の「正しい問いと答え」を学習し理解・記憶するのではない。何らかの学問を修得するということは、その学問の中に包み込まれている多数の「正しい問いと答え」を学習し、その学習から覚える奇妙な感覚に基づき問いを発して探求する繰り返しの末に、その学問に対する自分なりの「正しい答えと問い」を確立し実践するところにある。また、こうして何らかの学問を修得する頃に皆さんは学士となっているはずであるし、その頃には<自分が何者であるか>を少しは理解できるようになっているはずだろう。
皆さん一人ひとりに示すべきタスク・課題としては、窮極的には「〇〇学とは何か」という問いに対して「〇〇学とは××である」と自分の言葉で答えられるようになること、と言ったところだろうか。そして、この目標を達成するために、日々受講する各回の講義を動かしている論理や理論を自分自身で理解し実践できるようになるために、些細な疑問であっても一つずつ必ず解決していくことである。とはいえ、聞いているだけでは分かった気になるから、必ず(ノート等に)書き出すことを毎日やり続けることを、今回のタスク・課題として提案しておくことにしたい。