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第5回 個別指導の受け方



大学あるある話(エピソード)

 「分からないことがあったら気軽に教員に質問すれば良い」と言われても二の足を踏むことも多いだろう。「子どもっぽい質問で恥ずかしい」とか、「変な質問になってしまって怒られるのではないか」とか、あるいは「自分の成績評価を下げることになるのではないか」という様に、何か否定的な気持ちが急に湧き出て来て質問できなかったことは、皆さんのこれまでの人生の中であったかもしれない。では、どういう風に質問し個別指導を受けるのが無難なのだろうか。お手本になりそうな例を、JくんとKさんに登場を願うので、参考にして欲しい。

Jくんの場合「先生って見た目より怖くないんですね」

 Jくんは引っ込み思案というよりも今どきの男子。ミスや失敗を恐れて、あるいはミスや失敗をすることが恥ずかしいと思って行動力が弱かった。そのため、私の方から声をかけなければ話すことができない期間が半年ぐらい続いた。そんなJくんが私に対して初めて話しかけてきた。曰く「アキモトサトシ(仮名)先生に質問したいのですけれど、『どうすれば』質問できますか?」である。
 予め断っておくと、アキモト先生は強面の人でないし、言葉遣いがキツイ人でもない。同時に、相手の話し方が同級生に向かってのため口であろうと、支離滅裂な言葉を投げかけて来ようと全て受け止めることのできる教員の鑑と言って良い人物である。それでは、Jくんは何に躊躇していたのか。何度か言葉を交わして気づいた事は、Jくんは質問の仕方が分かっていないということだった。本来、それは高校までで無意識のうちに修得できるだろうとも思うのだが。

Kさんの場合「どこまで準備してから質問しに行くべきですか」

 Kさんは石橋を叩いて渡るタイプの女子。こういうと語弊があるかもしれないが、今どきの男っぽさがない割には慎重すぎるという意味でJくんと同じく行動力が弱かった。そんなKさんがFirst Year Seminarの講義の中で取り上げたテーマ「教員との距離感」で私に提起した質問が「どこまで準備してから私たちは質問すべきなのでしょうか?」であった。
 一般論として質問したい内容には大小があるから、大きな内容の質問であればそれなりに質問者も事前に調べてからでないと答えを十分に理解できない。一方、小さな内容の質問であれば話の中の流れで咄嗟に確認するだけでも十分に理解できる。とはいえ、Kさんにとって、この一般論は承知の上での質問だった。それではということで、Kさんが質問しようとして質問しなかった場面を幾つか紹介してもらって質問の意図の把握に努めたところ、意外な事実が分かった。Kさんは「言われた言葉、書かれた言葉の『内容』を理解できないから質問する」という型通りの質問だけが質問するということなのだと理解していたのである。

所見

 JくんとKさんに共通する弱さは、自分の感覚を自分の言葉に乗せて伝える技術を修得していないところにある。すなわちコミュニケーション能力、特に自分の言葉という球を相手に投げる胆力の無さである。自分の感覚というのは好き嫌いや喜怒哀楽の感情のことであり、それを自分の言葉に乗せて伝えるというのは自分の感情を相手に理解させる話し方のことである。自分の思いを十分に相手に伝えることは社会人になったとしても難しいものであるから、そんな難しい課題に取り組めるだけの胆力こそ人間社会で生きる私たちにとって不可欠のはずであると思うのだが、武漢コロナから遠隔授業で過ごさなければならなかったコロナ世代については、特にこの胆力が小さいように感じる。
 一般論として言えば、次のようなところとなる。すなわち、同年代同士であれば何かの例えであったり、流行っている何かを利用して自分の感情を相手に理解させることは簡単であろう。しかしながら、それが目上の人を相手にしたり、年下の人間を相手にしたりすると、自分の感情を理解させることに苦労する。というか、面倒くさくなってそんな状況を避けて過ごせるぐらい現代社会は荒(すさ)んでいる。共通する価値観や考え方が無い状態でコミュニケーションをしようとする勇気を持ちたくないのかもしれない。
 否、コミュニケーションをしようとする勇気を持ちたくないのではなく、持たなくとも問題がなかった空間に慣れてしまっているのかもしれない。例えば、高校までの先生にタメ口で話をしていることに慣れていたり、両親とろくに話もしないで学校と住まいを往来することに慣れていたりしていると、自分の住む世界を狭めていることに実は気づいていないのではないか。蛇足となるが、そういう空間に身を置くと自分に対して何でも他者がやってくれる(から自分で判断することがない)状態に慣れてしまうので、「人間なのだがロボットの様な存在でいること」に危機感さえ覚えないのだろう。その結果、イマドキの大学生の問題点として指摘されがちな最も致命的な原因である語彙量の少ない人間が完成するわけである。
 ここにいう語彙量は一朝一夕で身につくものではないから継続して身に付けていく必要があるから、ここでは多言しない。それよりも大切であろうと思う原因は正しい質問の仕方があるはずだと考えて二の足を踏んでいる弱さ、すなわち一歩踏み出す勇気がない点であると思う。なぜならば、自分の言葉が通じなければ、話し方を変えてみるなり、新しい語彙を見つけてそれを組み入れて話してみるなりというふうに、トライ&エラーを繰り返してゆけば、いつか自分の言葉が通じる時が必ず来るからである。それは太陽の昇らない明日がないのと同じ。太陽は再び昇るのである。

ポイント

 まず、Jくんの場合は自分の気持ちや思っている事を、自分の幼稚な表現でも相手に伝える勇気を持つ事がポイントだった。質問する相手が教員の鑑と言えるアキモト先生であったことも幸いだった。最初の質問から1ヶ月もしない内にJくんの語彙量は見違えるように増えたし、自分の感情を相手に何とか伝えられるようになっていた。重要なポイントは同年代でない他人と言葉を交わす機会、話す機会を増やせたところにある。書き言葉はお世辞にも上達したとは言えず、話し言葉についてもタメ口について4年次になって改善する途上で卒業し就職してしまったのだが、就職先の人材派遣会社では先輩後輩の垣根を越えて議論に参加し立派に会社員を勤めている。
 次にKさんの場合は理想とする質問の姿が高すぎて、そのように振る舞えない自分を責めて我慢するという負のスパイラルから抜け出す事がポイントだった。一般に、良い質問 Good Question と評価できるものは大きな内容の質問だけではない。小さな内容の質問であっても同じ評価を得ることがある。いずれの質問においても共通していることは、「何故その質問になったのか」を相手に理解させた上で自分の疑問を伝えているところにある。実は、これが正しい質問の仕方の1つであり、汎用性が高いと私は思う。

タスク・課題

 「個別指導の受け方」という仰々しいタイトルを付けてしまったが、個別指導を受けよう、質問したいと決心した時点で、そこいらの令和の大学生よりも一歩先を歩んでいると思って欲しい。そもそも「単位を取る」「良い成績を取る」ことだけに固執する学生は、担当教員に対して良い印象をもってもらうために「自分はどのように行動すれば良いか」にしか注意を向けない。そのため個別指導を受けない方が目的を達成できると判断する場合は質問しようと決心をすることがない。しかしながら、矛盾するような言い方になり恐縮だが、「単位を取る」「良い成績を取る」ためにこそ個別指導や質問を繰り返すことが実は重要である。
 そもそも質問ができるということは、自分がどの部分について分かっていないかを理解・把握することの表れであると言える。そのため既に分かっていることを分かっていないフリをして質問することは、担当教員側に見抜かれてしまうだろうから止めた方が良い。一方、自分がどの部分について分かっていないかを理解・把握できていない場合は、自分が理解した内容を自分の言葉で担当教員に伝えてみるという質問をすることが、適切な質問となる。聞き取った担当教員側は、自分の論じた内容と比較して質問者がどの部分について分かっていないのかを特定することができるからである。ゆえに、聞き取った内容を基にして質問者に対して個別指導を行なう事ができるようになるので、お互いにとって有意義な時間の使い方が出来たことになる。したがって、受講生からの質問を業務妨害だとして威嚇するヤスアキヒロシ先生のような教員の存在は大学生の学びを妨害する存在でしかないと私は考える。
 というわけで、今回のタスクは以上の2つ。すなわち、質問するには自分がどの部分について分かっていないのかを発見すること、個別指導を受けるには、自分が理解したところの内容を話してみることである。シンプルなように思うが、それでも年代の異なる教員に最初から話しかけるのは勇気がいることかもしれない。その場合は同級生を相手に質問や個別指導を受けてみよう。あるいは、同級生を巻き込んで一緒に教員に話しかけてみよう。大丈夫、天才は一握りしかいない。普通の人間は最初から上手にできないように出来ているから、失敗を繰り返して天才に近づいていくのが当たり前。失敗があるから成功があるのです。

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