【タイプⅠ:千葉モデル】三矢式参加型まちづくりプロデュース術史(2)
1 タイプゼロ(=世田谷モデル1999)
前号にて、三矢の参加のデザインの実務家経験25年を踏まえて、その技術展開史に関するコラムを書く経緯は解説した。参加型まちづくりプロデュースの基本フォーマットがセットアップされる千葉時代の話をするつもりだったが、少し寄り道をご容赦いただきたい。
というのも、大学院を出た後、大久手計画工房・東京事務所(伊藤雅春所長)のもとで参加のデザインの思考や原理、働き方を学んだことを整理し、これを「タイプゼロ」としたが、よく考えると、この前にも押さえておくべきエピソードがある。それは1999年3月、つまり、大久手計画工房にお世話になる直前のことである。
この頃(修士論文を終え、卒業までの間)、三矢は以前からつながりのあった名古屋市緑区のお母さんたちからの要請で「公園デザインワークショップ」を手がけていた。検討対象は、緑区にある「新海池公園内の子ども広場の再整備」である。当時の三矢には、デザインワークショップの経験がなかった(注1)。このため、「参加のデザイン道具箱(編:世田谷まちづくりセンター)」を教科書として、見様見真似で3回のワークショップの企画、運営、記録をやり切った。
一人で公園デザインワークショップを切り盛りするのが過酷だったことと、そもそも経験がなかったこともあり、当時、偶然にも東京で再会した同郷の友人・天野裕氏に協力を仰いだ(ここでのタッグが6年後、NPO法人岡崎まち育てセンター・りたを生み出すことになる+岡崎の奈良井公園デザインワークショップにも影響/注2)。
以上により、1999年に大久手計画工房でお世話になる前に、「参加のデザイン道具箱」をお手本にデザインワークショップを実践していたため、これは一つの型式と言えそうだ。この頃は、「前・大久手計画工房時代」であるため「タイプマイナス1」と呼ぶ。とはいえ、その後の大久手計画工房での経験も含めて、世田谷まちづくりの枠組みの範疇であるため、実質的に「タイプマイナス1」と「タイプゼロ」は、概して「世田谷モデル1999」と言える。
2 タイプ1:千葉モデル(2000−2002)
前置きが長くなってしまったが、ここで「三矢式参加型まちづくりプロデュース術」のタイプ1(以降、MMPタイプ1と呼ぶ)の話を始めたい。これは、三矢がNPO法人千葉まちづくりサポートセンター(代表:延藤安弘)時代の技術を指す。1999年に、大久手計画工房に拾ってもらった三矢だが、たった1年で卒業することになった。当時日本、特に千葉県地方はNPOバブルにわいており、受け皿となるNPOの体制以上に、公共を担う新しい主体として期待が寄せられていた。大学院時代の恩師・延藤先生が代表を務めるNPOも例外ではなかった(市民参加や対話の技術を扱う専門組織が当時の日本にほぼ存在しなかったのが、追い打ちをかけた)。延藤先生からのご用命で、大久手計画工房を退社し、千葉のNPOへと移籍した。
今回紹介する「MMPタイプ1」を説明する上で重要となるプロジェクトは3つある。A-1わろうべの里(千葉県四街道市南部総合福祉センター)デザインワークショップ、A-2木下まち育て塾(千葉県印西市木下地区のまちづくり人材育成プログラム)、A-3千葉まちづくりサポートセンターとしての活動支援(例:地域通貨ピーナッツ)、である。
A-1は、三矢が初めて公共施設の参加のデザインを担当したプロジェクトである。およそ世田谷方式を参照しているが、市民参加による公共施設の基本設計ワークショップは、5回で構成することを基本としている(この勘所は伊藤雅春さんに教えてもらった)。1回目に先行例学習を含めてイメージを膨らませ、ビジョンを描く。2回目に敷地体験をして敷地の活かし方のベクトルをさだめる。3回目にデザインゲームを実施して、諸室の相互関係、屋外とのつながりのアイディア出しをする。4回目にこれまでに選られた情報を整理し、設計士らとともに複数案を提示し、評価を受ける。5回目に、1案に絞り込んで修正点の洗い出しをする他、運営や活用についてもイメージを膨らませる、といったところだ。
長くなってきたので今回はここまで。A-2の解説以降は、次号へと続く。
冒頭の写真は、わろうべの里・内観(筆者撮影)。
注1:千葉大学大学院・延藤研究室の院生をしていた頃は、まち探検と布絵ワークショップなど、子どもの体験や表現を扱うワークショップばかりやっていた。他にも高山市の住宅マスタープラン、神戸市の復興住宅住まい方ワークショップを担当した。
注2:天野氏は当時、東京工業大学の土肥真人研究室に在籍。土肥研究室はコミュニティデザイン、ランドスケープを扱うゼミであったため、三矢よりも公園デザインの造詣があった。彼はその後、博士課程に進むことになる。