「もしもピアノが弾けたなら」

「もしもピアノが弾けたなら」という歌があるが、それとは全く関係ないことを最初にことわっておく。

今年の10月、パートナーの高校時代の同級生が主催したトークイベントのお手伝いをさせてもらった時、出演していた手条萌さんの「バズツイート・コンプレックス」という同人誌を知り、自分のコンプレックスを自分の言葉で浮き彫りにする覚悟といおうか、そういった試みそのものに強く惹かれた。正直に言えば「惹かれた」と気付いたのはつい最近で、見て見ぬ振りをしたいくらいだった。
たぶん、自分のコンプレックスと向き合ってみたいという欲求を認められなかったのだ。

自分のコンプレックスを何か形にしてみたい。
書いたことでコンプレックスが消えるとはこれっぽっちも思わないが、目に見えるものにしてみたい、と思った。


私の最大のコンプレックスは「ピアノが弾けないこと」だ。
「弾けない」というと周りには相手にしてもらえない。
私は音楽大学を出て、今はピアノ講師をしているからだ。毎年の発表会ではドレスなんぞを着て講師演奏をしている。
そんなわけで、「弾けないって言ったってレベルが違う」なんて言われてしまっては、もう自分のモヤモヤを打ち明けるのも面倒になる。
なので、その言葉をぐっと飲み込んで、私の話を聞いて欲しい。

私は音楽大学を出たといっても、ピアノ科を出たわけではない。
クラシック音楽にはあまり興味がないものの、歌うのが大好きで声楽科志望だったが、落ちて一浪した。それでも受からず、第二志望の音楽教育に入学した。入試にピアノの試験はあるが、私は2年とも最も難易度の低い曲で受験した。
あの頃の私はピアノが好きではなかった。ショパンなどただの一度も弾いたことがなかった。
ちなみに、ピアノ科を受験するなら、受ける時点でショパンのエチュードを弾けるレベルに達しているのだ。(完成度云々ではなく、ひとまず指が動くかのはなし)
入った音楽教育学科も、ピアノ科を落ちて入ってきている人もいるわけで、私はピアノにおいては完全に落ちこぼれだった。
2年生の時のピアノの試験で初めてショパンのワルツを弾いた。
大学在学中にピアノが好きになり、当社比でかなり成長はしたが、結局ショパンのエチュードは手もつけないまま卒業した。

卒業してからようやくクラシック音楽に興味を持ち、ショパンに出会い、その魅力に取り憑かれてからはピアノを真面目にやるようになった。
上手くはなった。過去の自分と比べたら格段に。
でもショパンの曲には難曲も多い。泣きたいくらい手も足も出ない曲が多々存在する。
今からでも死に物狂いで毎日8時間くらい練習すればそこそこのテクニックは身につけられるだろうが、別に今更ピアニストを目指すわけでもないし、仕事もある。
2年ほど前には声楽のレッスンにも復帰したし、今年からチェロも始めた。
イラストを描くのが好きで、音楽のご縁でコンサートチラシのイラストを描いて僅かな臨時収入になったりしている。
ピアノが特別上手く弾けなくたって、私には好きなことがたくさんあるし、音楽に関わっていられればそれで幸せだと思っている。

しかし、そう言い聞かせている節もある。

やっぱりピアノを弾いて生きてみたかった。
ショパンを好きになって強くそう思う自分がいた。
小さい頃からテクニックを磨き、表現や、作曲者の意図、自分の解釈…
深い部分でショパンの音楽に触れたかった。
ピアニストのインタビューやコンサートでのトークを聞いてしみじみ思う。
彼らは演奏を通してショパンと話が出来る。
こんなに羨ましいことはない。
私は出来ない。音を派手に間違える、指が回らない、絶望的に曲にならない。
そんなものばかりだ。表現なんて言っている場合ではない。
プロのピアニストだって自分の演奏に納得がいかないことも多々あるだろうが、それこそそのレベルの話をしているんじゃない。
羨ましい、ピアノが弾ける人が羨ましい。いっそ妬ましい。

これみな全て、自業自得なのだ。
幼い頃にはピアノに興味がなく練習が嫌いだった。というか、ほとんどしなかった。
音大を受けるからピアノは半ば仕方なく通っていた。
そんな私なのだから、今の状況は仕方ないことなのだ。それは十分に分かっている。
それに、例えば小さい頃から必死に練習していたとして、果たして私はピアノ科に入っただろうか。それは誰にも分からない。途中で嫌になり、もう一切ピアノに触れない人生だったかもしれない。
そう思えば、途中で好きになれて、今も弾いているのだから、結果オーライではないか。
もちろんそれも分かっている。
これは愚痴でも現状への不満でもなく、渇望だ。
「ピアノが弾けない」私の、心からの欲求。

ピアノが弾けたなら、私はきっと声楽もチェロもやらなかっただろう。
歌とチェロは、ショパンが好きなものだ。
オペラ観劇が趣味だったし、「ピアノの詩人」といわれるほどピアノ曲ばかりのショパンが唯一と言っていいくらいに好んだ楽器がチェロだった。
ピアノが弾けぬなら、せめてショパンが愛した他のものに触れてみたい。それが私がこの2つを始めた大きな理由のひとつだ。
加えて、3年ほど前からフランス語を、去年からポーランド語を独学で勉強し始めた。
ショパンが話し、書いていた言語だ。
必死に、必死にショパンを取り巻くものを貪っている。
ピアノの代わりを探しているのだ。

声楽もチェロも、ショパン抜きで楽しい。演奏している時はとても幸せだ。
言語の勉強も思った以上に楽しく、フランス語は検定試験があるので達成感もある。
でも、他のものに触れれば触れるほど、ピアノへのコンプレックスは増していく。
空腹感が満たされることはない。

ああ、ピアノが弾けたなら…ピアノが弾けたなら…。

誤解のないよう言っておくが、ピアノよりもチェロや声楽が下だと言っているのではない。
また、ショパンとの対話が音楽を介してだけ成されるというわけではないことも分かっている。
演奏家ではなく、ショパンを研究している人にとっては、ショパンとの対話は別にあるのだろう。

これはあくまで、「ピアノがうまく弾けない」というコンプレックスを持つ私だからこそ
持つ考えであり、「演奏することでショパンと対話したい」という執着なのだ。


ショパンに出会わなければ、私はこんな強いコンプレックスを抱かずに済んだ。
それなりに楽しくピアノを教えて、弾いて生きていけたのかもしれない。

苦しい。こんな思いを抱えて生きるのは苦しい。
しかし、「ピアノが弾けたなら」と思いながら、私はやはり今の私の状況を愛してやりたい。
必死にもがく自分を鼓舞してやりたい。

そしていつの日かこのコンプレックスを手懐けて、自分でショパンとの対話の方法を見つけ出したい。

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