
「ABC殺人事件」 ~ クリスティー・プロジェクト その18
今回のキャッチ画像としては、まずアルファベットの「ABC」なんだけれど、果たして「みんなのフォトギャラリー」でご提供者はおられるのか ? と思っていたら、いらっしゃいました。シンプルながらも含意を感じさせる構図がミステリーにマッチします。使わせていただき、ありがとうごさいました。
さて、今回はアガサ・クリスティ―の超有名作「ABC殺人事件」(1936年)。アガサの著作の中でも好きな作品として挙げる方も多いのだが、なぜか私は今一つ乗れないのである。したがってあまり執筆意欲が湧かない。その理由を考えながら、再読してみた。 アガサの長編ミステリーを発表順に読んできてこの作品に至ると、今までとは趣向が全く異なることは歴然としている。ハヤカワのクリスティー文庫の解説で法月綸太郎がわかりやすく説明をしているが、本作はいわゆる「ミッシング・リンク・テーマ」のプロットの先駆けとして、また後年のサイコ・スリラーに多大な影響を与えたという意味でも、エポック・メイキングな存在感を放っている。「ミッシング・リンク・テーマ」、すなわち「おもに連続殺人のケースで、いっけん無関係に見える被害者どうしを結びつける隠れた共通項を探していくもの」(法月綸太郎による)は、個人的には「見立て殺人」と並んでかなり好みのプロットで、新作ミステリーにこの紹介文があれば、つい買ってしまうほどだ。「あそびごころ」のあるものが好きなんですね。その意味では本作も大好きになりそうなのだが、何がひっかかるかというと、この作品に漂う「サイコの匂い」である。少々ネタバレに近くなってしまうけれど、本作は実は「サイコのようでサイコでない」ので心配ないのだが、後年の「サイコ・スリラー」物の洗礼を受けてしまっている身は、冒頭の三人称からイヤな予感があり、それが最後までぬぐえなかったのである(笑)。 本作でミステリー界に燦然と登場した「ABCパターン」だが、多くの論者が指摘するとおり、実際の犯罪としては誠に荒唐無稽である。直接殺したい人を殺せば動機からすぐ自分だとバレてしまうので、大量殺人に紛らせてしまえ、という発想自体はわかるが、犯行は重ねれば重ねるほどバレやすくなるし、本作のある事件の設定のように相手を間違えちゃうこともあるのである。ついでに言えば、巻き添えをくって殺された方は全くたまったものではない。ただの金銭欲、怨恨などを超えて無関係の人を平然と殺し、悲惨な状況下にある人間を私欲のために利用しつくすという倫理観の欠如は、犯人の精神状態に関してみても一種の「サイコ・スリラー」であると言えよう。 犯人がなぜポアロに挑戦状を送ったのか、という謎解きは秀逸で感心した。やはり名作にはかわりはないですね。
映像化作品は、ドラマシリーズ「名探偵ポワロ」第31話(1992年・英国)。またまたヘイスティングスが南米から帰ってきて助手を務める。内容はほとんど原作どおりであるかわりに、ところどころ挟まれるいつものレギュラーメンバーの軽口などが楽しい。ポアロとヘイスティングスが食事後に台所で食器を洗いながら推理を交わすところで、ヘイスティングスが水に漬けて洗った皿を横に立ってふきんを持ったポアロに渡していくのだが、きれい好きのポアロにダメ出しをされては差し戻され、いつものことなのか何も言わずにまた洗い直すシーン(ただ、全然手元を見ずにブラシでこすっているのであまりきれいになった様子はないが・笑)などはユーモラス。なお、イギリスの食器洗いは水道の事情で流水を使わないのが通常だそうで、「イギリスのお菓子とごちそう アガサ・クリスティーの食卓」の著者 北野佐久子氏はコッツウォルズのホームステイ先で洗剤で洗った食器を水道ですすいで怒られたそうだ。イギリスでは入浴もシャワーで済ますことが大半とか。お風呂大好き人間の私には耐え難い習慣である。ジャップ警部も大活躍、エミリー夫人にたくさんの食材の買い出しを頼まれて、抱えたものを部下の目から隠すところはキュート。最初から最後まで登場するヘイスティングスのポアロへのお土産のワニのはく製など、ちょっとしたアイテムが凄惨な事件の合間の恰好の小休止となっている。 登場人物は、原作では青年たちが多い印象だったが、あまりパッとしないおじさんだらけで魅力なし。しかし、疑惑を持たれるアレクザンダー・ボナバート・カストのうらぶれ方は素晴らしく、原作では伝わりづらい、自覚なく人事不省に陥ることの恐怖がよく表現されていた。完成度の高い作品だと思う。
アニメ化作品は「アガサ・クリスティ―の名探偵ポワロとマープル」第5~8話「ABC殺人事件」(2004年・日本)。アニメと言っても、全4回、100分間にわたり丁寧に筋を追った作りで、あなどれない。英国のドラマシリーズのような大人の諧謔趣味はないが、これはこれでなかなか楽しめる。 ポワロは原作の自慢タラタラ、時に嫌味なところは影を潜め、声優を務める里見浩太朗のイメージどおりの落ち着きのある紳士。瞳がときどき緑に輝くのは原作のポワロと同じで細かいところにこだわりを感じる。登場人物の第2の被害者ベティの恋人ドナルド、第3の被害者クラーク卿の弟フランクリンは原作のイメージどおりの若々しいイケメンで納得。 ところで、本作のキー・アイテムの「シルクのストッキング」って、当時はどのくらいの値段だったのだろう。立派な箱に入っているようだし、プレゼントされて嬉しいものだとしたら、きっと高かったのだろうね。
次回は「メソポタミヤの殺人」。 (2380字)