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(10)1573年 多以良(たいら)

小説「大村前奏曲(プレリュード)」序章 Vol.10

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 この時代に来て半年以上経つ、年も明けた。タイムスリップという現実を受け入れなければならないのは解ってはいるが大村純忠として生きる覚悟が出来たかと言えば全くの嘘になる。未だに「夢であって欲しい」と思っているのもこれまた事実だ。
 ただ、そうも言ってる場合ではない。とにかく状況を整理するにはあっちこち回ったりネットで調べた「もろもろの事」を脳神経の回路をフル稼働して思い起こしていた。PCも無い、頼りの資料棚もない、彼女の瞬時の情報処理能力も今は私のかたわらには無い。とにかく自分の記憶だけしか頼るものは無いのだ。
 富永殿の話では多以良は信用しても良いとのこと。戊辰戦争でも討幕軍の最前線で活躍したぐらいだからその考えに間違いはないだろう。いろいろ県内を見てもあの時代の西海市域は西彼杵半島の、それも大村湾とは反対の外海側に在りながらも大村領の重要エリアだと感じた。
 それも多以良は大村にとっては新参者でありながらも近江守佐々木源氏大原の血筋、領地はさほど無かったようだが米原と関ヶ原を結ぶ交通と軍事の要衝ではないか。それに近江佐々木と言えば琵琶湖での水軍力は軽視できない。長浜、米原など琵琶湖東岸と同じく近江佐々木の高島、それに坂本、大津など西岸との交通は船が主流だったに違いない。
 テレビ東京のあのバス旅が好きで何度も見ているが滋賀県は路線バスではなかなかルートが繋がらないのだ。路線バス、とくに最近増えたコミュニティバス路線というのは新しいバイパス道路が出来たとしても昔ながらの旧道を経由していることが多い。実はそういったルートこそがモータリゼーション発達以前の人々が徒歩で行き来していた「みち」の歴史的痕跡なのだ。
 「急がば回れ」という格言も琵琶湖発祥である。船で渡るより陸地を遠回りしろという意味ではあるが逆説的に解釈すればそれだけ水上がメインルートで陸路がかなり不便な遠回りだったということだ。
 この大村はとにかく水運・貿易以外に生き残る道はないとは察している。私がここまで長崎の代わりの港にこだわる理由だ。以前に色々調べ歩いてそう感じてもいた。石高も少ない、目立った産業もない大村が江戸年間どうやって町を存続させていたのかを知りたい。そのカギが大村領の飛び地とも見える西海の地にあるように思えていた。その矢先に事故に遭ってしまったのだ。
 領内の経済を維持する、そのために大村純忠もキリシタン政策を進めながら横瀬の港を開放し、それが焼き討ちに遭うと新たに長崎の港を開いたのだろう。だがいずれ長崎は幕府直轄となる。明治以降は佐世保が軍港として発達はするがこの時代では松浦領で手が出せない。横瀬を復興したところで佐世保とは同じ湾内の対岸、出入りを考えればリスクは高い。やはり半島の外海側を使うのが得策ということか。
 もともと佐々木大原は近江佐々木嫡系で近江守の役職にあったとはいえ実際には京極や六角の血筋を借りて何代か繋いで来ていた。だが大原満信の代に領地を失ったことで蟄居謹慎処分となりその後松浦の小佐々こさざの地へと入った。一四〇〇年代半ばの話である。現在の名字の由来もその地名からだ。子孫の会には申し訳ないが「飛ばされた」という表現が適当だろう。
 まあ新たな領地を得られただけで幸運と言っても良い。近江に残った血筋は完全に京極の傀儡となるがそちらは数代で途絶えるのだ。ともかくこの時期の細かい資料はないが松浦一族は朝鮮をはじめとする貿易を行っていたようだ。おそらく大村との関係も婚姻関係などから推測して良好だったと思われる。貿易にも相乗りしていたのではないだろうか。そう考えれば大原が松浦へ派遣されたのも貿易に関わろうした京極の思惑かも知れない。
 ただその後キリスト教伝来と共に有馬、大村は南蛮との関係が強くなる。反キリシタンを掲げる松浦とは関係悪化、それを見た大原、いや小佐々は居城を西海の多以良へと移した。まるで一夜城のごとく海を渡った力はさすが近江水軍の血統である。さらに松浦と大村の対立の中でで大村領を選択したということは大村との関係を重視したと判断して良さそうだ。葛が峠の合戦はその表れだろう。
 長崎赴任から一年ぐらいだったか、西海方面のことを調べている中でとあることに私は気付いた。或る意味これも西海と大村の関係の根拠かも知れない。今は佐世保市に合併はされてしまったが、最初に大原が赴任した松浦の小佐々の町名は「こさざ」で三文字目が濁る。同様に佐々町も「さざ」だ。だが西海では「こざさ」と発音する。松浦方面にも小佐々姓があるがそれも読みは町名と同じなのだ。
 県庁の帰りに駅の近くで飛び込みで居酒屋に入ったことがある。年配の女将の店で客の名前を「こさざさん」と呼んでいた。話のキッカケにと思ってケンミンショーの真似をしてみた。「お客さん、もしくは女将さんのどちらかが松浦方面の出身だね?」と。そしたらビンゴ、女将が佐賀県唐津の出身だった。それはともかくわざわざ名の読みを変えたということは松浦とは一線を画すあるいは決別するという意味があったのかも知れない。単に関西出身の人間には発音しにくかったという可能性も残るが。
 とにかく今流行りの言葉で言えば大村は二つの領地、二つの大名のコラボで生き延びてきた。そう考えるしかない。



(続く)


※西海小佐々氏の出自については諸説あります。





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