(6)2024年 地理
小説「大村前奏曲(プレリュード)」序章 Vol.6
(旧マガジンで第二章で書いたものを一部分先に)
※2024年とあるのは著者による解説と理解くださって構いません。
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ここまでで一旦長崎県全体のことを話さねばならない。九州北西の端にある細長い海岸の入り組んだ県だということぐらいは御存知だろう。日本一属する島の多い県だ。日本海の入り口、朝鮮半島との間には対馬と壱岐がある。まあ壱岐の方は長崎県ではあるが位置的には佐賀県沖にある。
陸側の概ね北半分は佐賀県北部と併せて「松浦」と呼ばれる地域だ。佐賀県側の唐津や伊万里、武雄などと繋がる地域であり長崎県には玄界灘に向いた松浦市がある。さらに西は東シナ海に面する平戸市があり九州北西端のところから平戸島、五島列島と連なる。海岸沿いに南へ下ると佐々(さざ)町から佐世保市と繋がりこの辺りまでが松浦エリアである。概ね歴史的に松浦氏の支配が及んできた一帯である。
県のど真ん中には大村湾がありその西側に西彼杵(にしそのぎ)半島が南から北へと張り出している。東岸沿いは早岐(はいき)、南風崎(はえのさき)、川棚を経て東彼杵(ひがしそのぎ)町から大村市と繋がりさらに南隣には有明海と大村湾に跨る形で諫早市がある。
西彼杵半島はいくつかの町村に分かれていたが平成の大合併でその北半分が西海市となっている。鍋島領だったり天領だった長崎に近い一部の町村が合併しなかったことを見ると江戸期以降も大村領として影響の及んだ地域が現在の西海市域と言っても良い。西彼杵半島のさらに西側海上には大島、崎戸島、松島がある。これらは比較的大きな島々だが松浦から南部の長崎方面に至るまでこの県には無数の島々が存在する。いずれも隠れキリシタンの里となったり明治以降は炭鉱の拠点となった島も多く、有名なのは長崎沖合ではあるが世界遺産にもなった軍艦島(端島)が挙げられる。
大村湾の入り口となる佐世保湾との境界には針尾島という大きい島がその口を塞ぐ形で存在し水の出入りはいずれも幅が狭く潮の流れも速い東側の早岐瀬戸と西側の針尾瀬戸しかない。このことが永い間西彼杵半島を「陸の孤島」としてきた要因なのだが高度成長期に針尾瀬戸に西海橋を渡し長崎と佐世保間の半島経由の幹線道を造った。確かにトラックやバスなど自動車での移動を考えれば大村を経由するよりははるかに近道にはなる。ただこの島自体がさらに逆V字型で大村湾側に深い入り江がもう一つあること、それに先の戦争で「トラトラトラ」を発信した電波塔などの軍事機密が故に歴史的には半島との陸路での往来は随分困難を極めた筈である。
ハウステンボスを契機に二本目の西海橋や有料道路も出来て交通アクセスは少しは良くなったようだが私の体験した限りでは早岐市内やそこへ入る橋のところで渋滞に巻き込まれたことが幾度かある。
諫早より南の地域は東西二つに分かれ南東側の有明海には雲仙のある島原半島、南西側には長崎市のある長崎半島が片や丸く、片や角のように伸びている。ざっと地図を見た範囲だが県全体の地理的なおおまかな解説は今のところこの程度だ。
さて大村市だが旧市街地は大きく言うと市域の南部、諫早市に近いエリアに偏っている。町の中心となるべき大村駅もインターチェンジや空港から見れば随分南寄りだ。私の知識からすれば駅も後付けなので大村市域としては江戸期以降ほぼその南端に位置する玖島城(大村城)を中心に町が発達したものと思われる。イオンや市役所、医療センターなど商業や生活に関する施設もこの地域に集中している。この先海岸線に沿って少し東に折れ岩松町辺りを経て諫早市に入る。
北は東彼杵(ひがしそのぎ)町と接する松原町から諫早市と接する丘陵地帯までが現在の大村市域なのだがその北側半分は合併以前の戦前あたりまでは東彼杵郡に属していた。現東彼杵町、川棚町も東彼杵郡であり大村市となった地域も含めて古くから大村湾東岸では「そのぎ」と呼ばれていた地域だ。東彼杵町も「東」は付いているが駅名も「そのぎ」で中心街の町名やバスターミナルも「彼杵本町」だったりする。長崎では「そのぎ」と言えば東彼杵のことなのだ。それだけ「西」彼杵は歴史に隠れてきた土地なのかも知れない。
大村市街の地理についてはまた改めて細かく語ることにはなるが一つだけ言っておきたいのは、現在は長崎県の県庁所在地は長崎市だがこれは江戸幕府が長く長崎の港を日本唯一の貿易港として栄えていたためであり歴史的に平安時代から戦国時代までは長きにわたり肥前の国の現長崎県域としては「大村」が中心地だったということだ。
(続く)
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