奈良時代の源流…秀逸の新益京出土・・緑釉脚硯は奈良三彩へ
新益京とは、皆さんよくご存じの藤原京です。近代に藤原京と名付けた人がいて、元の名称は日本書紀などにあるように、歴史的には、『新益京』(しんやくのみやこ)と呼ばれています。ただ、新益京にあった宮殿を藤原宮と呼んだようです。
このように読みや名称を後代に変えてしまうという事が間々ありますが、少し調べようと言う方はやはり古代の呼び名を大切にした方がいいと思います。というのも、日本が使っている『漢字』でつけられたものには、古代の人達が知恵と工夫を凝らして付けた名前で、じっくり読むと、そこには古代の人達からのメッセージがあります。徒に漢字を変えたり、名称を変更してしまうと貴重な歴史を見失う事もありかすから…。例えば、年号についても令和とか記憶に新しいところではこのようにじっくりと選定されています。
さて、この新益京の出土物は実に見事な逸品が多くあります。制作技術もさることながら、芸術性も非常に高いものを感じました。
すでにお伝えした『鬼瓦』で新益京から発掘されているのが、下写真です。右下が飛鳥時代の『鬼瓦』なのです。実に美しいと思いませんか?
さらに、岡寺にあった文塼(ぶんせん)は見事なものです。
この『塼』は、朝鮮から導入され、仏教建築の建立に伴い、基壇側面の化粧積みや床面に瓦(かわら)とともに利用された。
岡寺出土の天人文塼は、壁面に用いたものとして著名だそうです。
この塼の絵柄は、東大寺の八角灯籠に描かれている絵柄を彷彿とさせる秀逸の一品と思います(岡寺は、創建当時は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。すでに檜前寺遺跡で書きましたが、現在はその地に神社があったと言われています)。
タイトル上の写真は実は『緑釉脚硯』です。上面の緑は、『緑釉』という焼物に『釉薬』を施したものです。よく、茶に使われる椀などの解説で出てくるものです。
実は、東京国立上の博物館で開かれた特別展でも6~7世紀に制作された『新羅』の緑釉器が数多く展示されたことがあります。
この硯の色彩を見ていると、明らかに奈良時代の『奈良三彩』の源流と見えます。下の写真は奈良三彩の一つです(「天平」奈良国立博物館より)。
なぜ、このような秀逸の遺物が出土するのでしょうか。
じつは、天武・持統朝には、朝鮮半島『新羅』との交流が壬申の乱以降に急増しています。
新羅と言う国は、実は西方のローマ文化を持つ国であった訳です。陶器、ガラス器、馬具など西方から『草原の道』(ステップルート)を経て朝鮮半島にもたらされたもので、大和朝廷と新羅の交流の中で、実に多くの一線級の技術者達(博士と呼ばれた…『瓦博士』のごとく)が一時的に渡来して、日本と言う国のあらたな都(新益京)の建設や芸術・技術をもたらせました。これにより、日本で最初の瓦葺の都を造りました。
新益京は、5.3㎞×5.3㎞の広さがありました。
この新益京は、新羅の都城『慶州』を手本に造営されました。
天武・持統朝では、合計22回に新羅から日本への渡航が行われています。1000人を越える技術・芸術文化の指導者たちが来日して本格的な『日本の都城』造りに従事していたのです(「仏像東漸」毛利久著)。もちろん、役目を終えた来日者たちは、持統朝に母国新羅に帰朝しています。
こうして、定着した新羅からの技術を基に多くの工芸品が今度は、日本人によって製作されるようになりました。