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新薬師寺…西ノ京・薬師寺が天平時代、こう呼ばれた。国宝十二神将の謎
藤原京には、天武天皇が皇后(後の)持統の病気平癒を願い発願・建立が始められた薬師寺。先に天武天皇が逝去し、持統天皇が遺志を引き継ぎ 『日本書紀』持統天皇2年1月8日(688年)に、無遮大会(むしゃだいえ、かぎりなきおがみ)が薬師寺で行われたとあり、金堂の完成による開催であったとされる。698年には完成したとされる(木材の年輪測定とも一致する)。
養老2年(718年)、薬師寺は和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い西ノ京に移される(『薬師寺縁起』には、養老2年、平城京に伽藍を移すとある)。
実はここで、藤原京に築かれた寺院(薬師寺)は、『本薬師寺』(もとやくしじ)と呼ばれることになった。
ここでも『本薬師寺』は、実際には下の写真のように、『元薬師寺』であったようだ(どうして【本】になったかは不明)。
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またこれに伴い、平城京(西の京)に移された寺院は、『新薬師寺』(しんやくしじ)と呼ばれるようになった。これが天平時代の『新薬師寺』である。
この経緯については、この時代を記した「東大寺要録」には、以下のように記載されている。
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上の文章の2行目から
★…実忠和尚西野建石塔…
と記されている。石塔とは、現在『頭塔』と呼ばれる。石塔に盛土がなされて現在のようになっている。現在の頭塔には、下のような説明板が置かれている。従って、現在我々が見る『頭塔』と、当初の『石塔(頭塔)』は異なっている事に注意ください!
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以上のように、当時は実忠和尚によって造られた『石塔』であった。この石塔は、積石塚と呼ばれる高句麗などで造られていた様式に似ている。もし『積石塚』とすれば近畿では最大の規模である。
この『石塔(現・頭塔)』は、東大寺大仏殿のほぼ真南にあり、大仏に対面するものとなっている。建造の目的は、『大仏制作時の犠牲者』を弔らう目的と推定される。犠牲者たちは、菩薩となったとされており、その意味では、菩薩への信仰の対象としての塚であった。これは東大寺縁起にも描かれている。
さて西の京・新薬師寺は、上記の『東大寺要録』で、宝亀11年(780年)に金堂、講堂、西塔を焼失している。下図は薬師寺式伽藍配置の概念図であり、A:中門、B:回廊、C:金堂、D:塔、E:講堂、F:鐘楼、G:経蔵。
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上の伽藍配置を見るとほぼ主要部分は焼失した。
そこで現在奈良市高畑町にある堂が新『新薬師寺』という名称で呼ばれるようになった。
この際に、西の京・(新)薬師寺から焼失や損壊を免れた仏像も新しい『新薬師寺』に祀られるようになった。
これには、国宝十二神将(塑像)がある。
この西の京・薬師寺の(焼失した)西塔付近の発掘調査で2000点近くの塑像の破片が発見されています(「奈良の寺 世界遺産を歩く」奈良文化財研究所編 岩波新書)。
このことからも少なくとも、西の京で『十二神将』が制作されたと考えてよさそうです。
では、現在『新薬師寺』と呼ばれている堂は、一体何だったのでしょうか?
これは、続編で説明いたします。