視線を、脱ぎ捨てて
2020年10月31日から11月3日、虎ノ門にあるCurator’s Cubeというスペースで個展「脱ぎ捨てられた視線」を開催しました。ご来場いただいた方々ありがとうございました。
今回の個展で発表した作品は、愛媛のオズハウスにレジデンスで滞在していた際に制作した「オドラデク(”Odradek”)」というシリーズに引き続く形で制作したものです。
Odradek
「オドラデク」とは、カフカの短編小説「家父の気がかり」の登場人物です。人物と言ったものの、オドラデクの実体は人ではなく、虫なのか動物なのか、そもそも生き物なのか。文章を読んだだけではどのような見た目なのかを具体的に想像することが困難な存在です。
当時は”実体はあるけれど存在を特定・分類できないもの”としてこの名前を作品につけました。しかし、今回の展示では全ての作品を無題で展示しました。
Untitled
”名付けられないもの”を作り出そうと努力しているので、名前はどうしても蛇足になってしまうと改めて感じ、今回の展示では作品タイトルを排除しました。
名前がないことで、見る人に名前をつけることに近い行為を促します。
脱ぎ捨てられた視線
人が何かを「見る」とき、ほとんどの場合そこには暴力性が伴うと思っています。それは、人間と対峙した時でも、物や動物を見る時でも。
以前「鏡としての作品」という投稿で、今回の個展で発表した作品と同シリーズのものについての見解を記しました。今回の個展のタイトルは、この投稿にも掲載しているステートメントの後半部分が関連しています。以下が該当する箇所です。
何者であるか特定不可能なものとして
それは存在し、
全ての人に解釈の余地を与えながら
意味を奪う。
人が視線を向けたくなる、
その行為の潜在性をあらわにしながら。
「見る」という行為は、ほとんど無意識のうちに起こります。
誰かが「見て」いるところに出くわしたとき、私はその人の「視線」を知ることになります。その「視線」の中には常に「見る」ことへの潜在的な欲求と、見たことで立ち現れるその人自身の思考や思いが含まれています。
今回の展示では、以前から関わりのある友人である山本伊等に詩を提供してもらいました。彼には、今回の展示タイトルといくつかの作品の写真、私が考えていることを大雑把に伝えて、そこから自由に発想して詩を書いてもらいました。
この詩も「見る」ことが一つの大きなテーマになっています。
展示タイトルである「脱ぎ捨てられた視線」は、ある日ふと浮かんできた言葉でした。「視線を脱ぎ捨てる」とは、私にとって「見る」という行為に対して改めて向き合うための合言葉のようなものだったのだろうとおもいます。
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