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わたしがぼくを呼ぶ

一人称の話をします。
私の現在の一人称は「わたし」です。「わたし」という一人称は本当に便利です。特に気に入ってはいませんが。
さらに幼い頃、私の一人称は一時期だけ「ぼく」でした。

いつからいつまでそう呼んでいたのかは特に覚えていません。「ぼく」と言うことに関しては親から指摘を受けた記憶もありません。なぜ「ぼく」だったのかも分かりません。私にとって「ぼく」という言葉は不自然ではなく、多くの人が自分にとって心地いい一人称を用いている感覚となんら変わりありませんでした。
ただ、どうしても家の外で使うことは出来ませんでした。

楠本まきさんの漫画「赤白つるばみ」を最近読みました。印象的なシーンの一つに登場人物のヒルコがスペイン語の先生に"文字の色が見える人"について話す場面があります。先生はヒルコの話にため息を吐いて「世の中にはアテンションシーカーが沢山いるからね」と言い放ちます。
先生が放った言葉は私が幼い頃恐れていたもの、そのものです。attention seeker。目立ちたがり屋、かまってちゃんの意だそうです。

世の中に生きている人間は全員違う生き物で別の存在で、たとえ似ていたとしても違う考え方を持ち別の世界を見ている。それはすごくシンプルで自明なことです。誰かと大きく違っていたとしても、一体何がいけないのでしょう。小さな差異も大きな差異も等しく差異であることに変わりありません。

それでも、やはり私が自分を「ぼく」と呼び続けていたら、目立ちたがり屋だと思われて揶揄われながら生きることになっていたでしょう。私は揶揄われても笑われてもストレスを感じることなく生きられるほど強くありません。傷ついてでも我慢してでも自分を貫き通せるほど強くありません。
「ぼく」と呼びたい自分は長い間出てくることはありませんでした。

ところが最近パートナーと暮らすようになって、家の中では、また「ぼく」と呼べるようになりました。パートナーが自分のジェンダーを受け入れてくれている環境に安心して、パートナーと話す時だけは普通に話せるようになりました。

日本語の一人称はいくつか種類があります。人がどういう意識で一人称を選択し使っているのか、正直あまり聞いたことはありませんが、私にとっては自分が自分を呼ぶときの大切な言葉です。違う言葉で呼び続けると、それは呪いとなって自分を本当の自分からかけ離れた場所に縛り付けることになる気がします。

時と場合によって一人称を使い分ける時、自分自身のチャンネルを変えるような意識の変化があります。誰かから呼ばれるときの言葉にもチャンネルを変えるような機能があると思います。
過去に数ヶ月間匿名のSNSをやっていたことがあるのですが、そこで自分と同じノンバイナリーの人達と繋がり、やりとりをしていた中である人が「子供にお母さんと呼ばれるのが絶対に嫌で名前で呼んでもらっている」と教えてくれたことがあります。
私は誰の親にもなったことがありませんが、感覚的にこの「嫌」という気持ちが理解できました。
「赤白つるばみ」にでてくるヒルコには双子の子供がおり、子供達はヒルコを「ヒルコ」と呼んでいました。しかし彼らが小学校に入学した後、周囲から何かとうるさく口を出されたことにより仕方なく「ママ」と呼ぶようになります。
一人称や二人称を変えることは、多くの人にとっては何でもないことでも、人によっては少しずつ自分を失っていくきっかけにもなりかねないと思います。

私は小学校を卒業した後は中高ともに女子校で、幸いなことに学校内で性的な目に晒されることもなく開放的に暮らしてきました。モテという概念からの解放は、端的に言って最高でした。大学に入って久々に味わった共学のノリは私の中にあった色んなものを知らず知らずのうちに抑圧し、怒りや傷を溜め込みました。

大学卒業直後に私は個展を開催しました。タイトルは「I miss me.」。当時は感覚的につけた面もあったのですが、今更になってこの言葉を選んだことが不思議と腑に落ちました。
いつか私は友人や知り合いの前でも「ぼく」と自分を呼ぶことができるようになるのだろうか。そしてそれを普通のこととして誰しもが受け入れてくれる日が来るのだろうか。来たら嬉しいと思うのだろうか。そんなことをぼんやり考えています。

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