存在の変容について(名字のはなし)
私の作品にとっておそらく一つの重要な要素になっている話を少しまとめてみようと思います。
私は両親の離婚の影響で、高校生のころに名字が変わりました。
ひとつ前に書いたnoteで一人称の話とともに、他者からの呼ばれ方について少し触れましたが、名字は人から呼ばれる機会も多いためか、変わると特に自分を形成する重要な何かを奪われたような感覚に陥ります。
ある日を境に、公共の場で、知り合いに違う名前で呼ばれる。書類に違う名前を書かなければいけない。
自分の名前を書くたびに・呼ばれるたびに少しずつ自分が奪われて変容していく感覚があります。
今の名字になってからかれこれ10年近く経とうとしているのですが、未だに自分の名字に違和感があります。体感としては、違和感というよりは異物感に近いです。旧姓ももう長い間使用していないのですっかり自分のものではない異物になってしまいました。
今の私にとっては、名字というもの自体が自分の存在と調和することなくただ人生の中に置かれた異物なのです。
大学に入ってから本格的に新しい名字を使い始めたのですが、自己紹介の時自分の口で名前を発するたびに想像以上の抵抗感を覚えました。
発音し慣れないせいで、イントネーションが合っているのかも分からない。
この名前で誰かに呼ばれたとき、すぐに反応できないかもしれない。
そもそもこんな名前の人間は自分の人生に存在しなかったのに。
名前を使うたびに小さな不安や不満が胸の中で生まれ、自分という存在が脅かされているような感覚を覚えていました。それでも呼ばれることにも、自分で名乗ることにもとにかく慣れなければならない日々で、徐々に不安に思っている状態自体に慣れていきました。慣れてしまえば、異物感を抱いたままでも生きることはできるし、存在を小さく脅かされ続けている状態にさえ(時々絶望する瞬間はあれど)慣れてしまいます。
私はいつの間にか異物を抱きながら生きる自分へと変容し、自分という存在が名前によって少しだけ脅かされている状況にも慣れてしまいました。
実は今の名字は旧姓に比べるとかなり柔らかい印象があるのですが、そういった名前自体の印象の変化も私自身の変容に多少関わっているかもしれません。名前が変わったせいか、歳を重ねたせいかわかりませんが、自分の人間性も以前に比べたら柔らかくなったように思います。名前の印象に自分や他者に期待される人格というものがあるのでしょうか。
現状、名字が変わるというものは全ての人が経験するものではありません。しかし、名字が変わってしまった・または変えた人の中には、私がここに記したような小さな抵抗感を覚え、自己の変容に戸惑う人がいるのではないかと思います。
私は私で、このどうしようもない異物感を抱えながら、全ての人がそのような変容を、存在が脅かされる小さな不安を強いられることがない社会を望みます。
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