“献身”とは〜『容疑者Xの献身』を見て〜

 久しぶりに映画『容疑者Xの献身』を見た。私の好きな映画の中で五指に入る作品だ。高校の数学教師の石神哲哉(演:堤真一)とその隣に住む花岡靖子(演:松雪泰子)に起きた殺人事件とその共犯関係を、東野圭吾ならではの手法で描かれたミステリ。それが見事に実写映画化された作品だ。最後の、石神の靖子への想いとトリックが明かされた瞬間は何度見ても鳥肌が立つ。

 物語を通して、容疑者Xーつまり石神の行いが、彼女への“献身”として描かれている。この映画での“献身”とは、どういう事だろうか。
 辞書通りに考えること、献身とは自己の利益を省みず自己犠牲の精神で行うこと、となる。石神は、自分自身の罪と引き換えに、花岡親子を守った。まさに、この言葉の意味のままの様にも思える。

 だが、“献身”とは本当にそういう意味なのだろうか。

 献身、と言う言葉は、よく『献身的な介護』のように使われている。だが、それが、日本人の好きそうな自己犠牲の美談として使われると、違和感を感じてしまう。前回の記事にも書いたが、“無償の愛”や“献身”は、決してどちらかだけの一方通行ではない、と私は考えているからだ。だから、今回の映画でも、この“献身”という言葉をテーマとして、考えてみることにした。
 例えば親の介護をする場合、それば利益を求めない、自己犠牲でやっているのだろうか。違うと思う。今まで、親から育ててもらったから、その愛情があるから、その恩返しとして、献身的に介護するんじゃないだろうか。
 例えば介護職の人の場合。介護職は、きつい、汚い、低賃金、さらに人手不足と、劣悪な環境で働いている人の話をよく聞く。ではなぜその人たちは介護職を目指したのか。noteで介護士の方の記事を読んでいると、「誰かがやらなきゃならない仕事だから」という使命感や、「誰かの助けになりたい」「誰かを笑顔にしたい」という願いのためという意見があった。それは素晴らしい志だと思うが、でもつまりは、世界の役に立ちたい、という自己実現の為の手段の一つが、その仕事だったんじゃないだろうか。そしてそれはどの仕事にも共通していると言える。つまり、介護職の人も、崇高な自己犠牲の精神で仕事をしているわけではない、と、私は考えた。

 そこから私が導き出した“献身”とは、もらった愛を返すこと、である。そして、もらう愛と、与える愛のバランスが取れていること。このバランスが崩れると、それは、自己犠牲になってしまう。

 話を映画に戻すと、花岡親子に命を救ってもらった石神は、彼女達の平穏を守ろうとした。そして石神は、自分の命を救ってもらった恩返しに、他人の命を奪うという選択をしてしまった。そこで、バランスが崩れてしまった。石神は非常に冷静で、理性的な人間だった。だからそこ、完璧に見えるアリバイトリックを作り上げられたのだが、盲点があった。花岡の想い、である。石神は理性的過ぎて、相手の想いを推し量ることができなかった。彼が、きちんと想いを伝えられる人間であったならば、あんな悲劇は、起こらなかった。

 最後の石神の泣き崩れる場面。あれが、この映画で石神が唯一吐き出した感情のシーンだ。それが一番観客の胸に刺さるのは、それまでの隠されていた石神の想いと思惑が、あそこで一気に溢れ出すからだろう。

 改めていうが、献身とは、もらった愛を返すこと。
 石神は、花岡親子にもらった笑顔を、自分の笑顔で返せたなら、きっとまた別の結末になっていたに違いない。

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