モノを通して設計者たちと対話したつもりになる遊び
外出する際は、各所に設置されているベンチによくお世話になる。
先ほどもちょうど、色々と肉体的に不具合が出たのでベンチで一息ついていた。
必要に応じて服薬して、好きな飲み物を買って、あとは動けるようになるまでボーッとする。それが私の外出時の過ごし方のひとつだ。(外出予定には休憩もしっかり組み込む)
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ボーッとしつつもなんとなく周りを見渡してしまうので、その時に目に入ったもののことを考えることも多い。
例えば自分の座っているベンチやソファの構造、屋内なら壁材や床材、なんでもその対象となる。
今回は至って普通の、板が並んだコの字型のベンチについてぼんやり考えていた。
今日は暑い。とても蒸し暑い。
でもこのベンチは等間隔に隙間を空けてくれてるからお尻が蒸れずに休めてるんだなぁ。
とか、
等間隔に並んだ板の角を落としてくれてるから、座った時に板の接地面積が少し減ってやわらかな座り心地になってるのかな。
とか、
隣のベンチは少しアールがついてるから、お尻の座りが良くなるのかな。
とか。そんな風に勝手に思いを巡らせることが好きだ。
この時に私の考えたことが正解かどうかはどうでもよくて、ただ単にモノを通して名前を知らない設計者と(勝手に)語らうのが好きなのだ。
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現代美術で使われる「もの派」とは全く違った方向性で、私は精神的な意味で圧倒的に「モノ派」だと思う。
モノは、時にヒトよりも雄弁に語ることもあると、私は思っているし、そこに残った痕跡や設計の意図から、作り手や使い手との擬似的な対話も可能だと思っている。
正直なところ「何言ってんの?」と言われる確率の方が断然高いのであまりおすすめはしませんが。
でも、私にとってモノたちは幼少期から友達だったので(名前をつけるのも日常茶飯事)、歳を経た今もそんな感じなのであります。
でも某サッカー漫画にて有名な台詞である「ボールは友達!」的なのとは全く違うと思う。ちゃんと読んだことがないので推測でしかないが、多分あれは「ボールとの絆」的なものであって、その他のモノたちにも同じ眼差しが向けられているかどうかは微妙なところだと思っている。
もっとゆるく、もっと程よい距離感で、身の回りに存在してくれているいろんなモノたちとなんとなく繋がっている感覚がある(その先には設計者や前の持ち主の存在も感じられる)、というのが私なりの実感なのです。