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【後編】大槻香奈個展「"STAY HOME"と蛹の時」 インスタライブ感想まとめ

前回の記事はこちら↓

1つの記事にまとめるには長すぎたので、前後編に分けました。今回は後編です。

インスタライブのアーカイブはこちらです。

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『継接ぎの孵卵器(2012)』

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『継接ぎの孵卵器(2012)』
引用元:https://www.cinra.net/news/2014/01/14/205124

約130cm角のパネル3枚による大作です。一番左と一番右の端は絵が繋がるように描かれているそうです。絵が連続する…つまり終わりがない、結論がない、という意味合いが込められているのだとか。

大槻さんのお話をざっくりとまとめると

震災後、SNSの一般化によって被災者との距離が近くなった。みんなが繊細で緊張感があり。その中では「これは言っちゃいけないのでは」と言う風に、何も話せなくなっていった。

被災してないならしてないなりの心の傷とかもあって、本当はそんな話もしたいのだけど、表ではできない。みんなが口をつぐむような時代だった
けれど『この絵の前だったら、結論のない話や不謹慎な話が延々できる』という、装置としての絵画とも言える作品。
(意訳)

たしかに震災直後は、未曾有の危機に日本中がパニック状態で、情報は錯綜し、善意による寄付が『集まりすぎて置き場がない』という別の問題を起こしたり、ボランティア慣れしていない人が被災地に入り逆に被災地の方のお世話になるという本末転倒などが起きていました。

そんな中では言論規制などかけなくても「この言葉を発して良いのかわからない」と、口をつぐむ人が増えていきました。日本人的な、空気を読む風潮がよく現れていたと言えるでしょう。

この絵の中に描かれた以下のドローイングはとても象徴的で、「もうわかりません」というのは危機に直面した方々が先行き不安になっているだけではなく、「助けたいと思っている人たち」が(気持ちはあるのに)どう動いたら良いのかわからない、という意味でもあるように思うのです。

大槻さんは今回の展示を通して「この作品はペインティングのふりをした巨大ドローイング作品なのでは」ということに気がついたそうです。遠くから見るとペインティングなのだけど、上記に引用したとおり、近くに寄って見てみると鉛筆などで描かれたドローイングが所狭しとひしめき合っているのです。

支持体はチラシ。この作品がペインティング作品のようで巨大ドローイング作品であることの意義は、文字通り「チラシの裏」で済むような他愛のない話でも受け入れる許容性があるということではないかと感じました(実際にはチラシの表面に描かれているとは思いますが)。

タイトルの『継接ぎの孵卵器』は、震災を踏まえるのであれば、壊れた孵卵器をなんとか継接ぎして作り直したと考えられます。ではなぜその装置は孵卵器なのか。

孵卵器は人工的に孵化させるための恒温槽です。しかし継接ぎですから必ずしも本来の能力を発揮するとは限りません。もしかしたらそもそも機械ですらなく、瓦礫を集めて雨風だけは凌げる少し暖かい程度の『巣』のようなものかもしれません。決して完璧なものではないことが想像されます。

ですからこの孵卵器に入っていても、必ずしも孵化できる(≒望み通りの結果が得られる)とは限らないでしょう。しかしこの作品のある特徴が、一つの示唆を与えてくれました。

この作品は、大きな一つのテーマを大画面に描くのではなく、小さな要素を細かに描き結果的に大きな作品になっているという特徴があります。つまり、「誰でも居ていい(どんな要素があってもいい)」のです。

「あなたの望みを叶えられるかはわからないし、わたしに何ができるかもわからない。でも、それでもここでよければ、居てもいいよ。」という、受け皿(器)のようなものを感じます。

救いを一方的に与えるのではなく、「わからないなりになんとかこの時代を生きてみよう?」というメッセージにも思えてきます。
是非とも原画で見たい作品です。


『種子のあとさき(2011)』

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『種子のあとさき(2011)』
引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/1353903484886601728?s=21

二人の女の子の線画の上(空の上)に女の子の生活用品や身近なものたちが舞っている作品です。蛹というテーマがまだ出てきてない頃の作品だったが、蛹的要素があるということで、今回の個展に登場したそうです。


『命の塵(2009)』

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『命の塵(2009)』
引用元:http://ohtsuki.blog102.fc2.com/blog-entry-567.html

これまでに、この絵の前から動けなくなるお客様がたくさんいらしたそうです。しかし(なぜかは)うまく説明できない、と大槻さん談。

この作品は基本的にアクリル絵具で描かれていますが、落ち葉だけは油絵具で描かれています。アクリル絵具は割とマットな色面になりやすいのに対し、油彩は透明感があり発色が良い(伸びも良い)という特徴があります。

よって、アクリル画の一部が油彩画になると、その部分だけがよりリアリティを持った(ある意味生っぽさのある)表現になります。大槻さんは次のように語っていました。

絵の上に葉っぱが置いてあるような感じにしたかった。テーマがシリアスすぎるからこそ、「これはあくまでも絵なんだよ」と、客観視するために葉っぱを描いた。
生きるのがつらい、生きたい、というような切実な想いが感覚的に込められている作品。当時の自分だったから描けた絵。今は描けないと思う。(意訳)

『命の塵』の隣に飾られた作品『それまでの或る日(2010)』も、同様に葉っぱのみを油彩で描いているそうです。

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『それまでの或る日(2010)』
引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/1353936758765850624?s=21

インスタライブを観たあと、「この絵の前から動けなくなる」理由を、私なりに探ってみることにしました。

描かれた少女はまるで大気と同化してしまいそうな危うさがあります(本来身近な大気は空気と呼びますが、地に足が付いていない感覚や、どこかへ離れて行ってしまいそうな感じを込めて、あえて大気と表現しました)。

放っておいたらもしかしたら次の瞬間にはもっと大気に溶け込んだ存在になってしまうかもしれない。そんな感情移入も加わり、目が離せなくなるのかもしれません。
そして思考します、「今ここに居る自分はどうだろうか」。

生きるのがつらくて、でも生きたくて、かといってどう生きるのが良いかもわからなくて…
そうやってぐるぐると考えを巡らせたとき、ふと葉っぱのリアリティとその影に気付きます。ああ、この子は絵なんだ、と。

この葉っぱは客観視するための装置でもあり、現実へと引き戻す装置としても作用しているように思います。

この絵の少女はバストアップで描かれているため足元がどうなっているかは分かりません。
しかし鑑賞者は自分の脚や補助器具などを用いて確かに「ここ」に「命」として存在しています。

絵の前で[だけ]考え続けていても、答えを出すことはできません。答えを求めるのであれば生きるしかないのです。
この絵から自らの力で一歩先に進むこと、それがこの消え入りそうな少女が示す道なのかもしれません。


新作:羽化を予感させる作品群

奥には新作コーナーがあります。前編で触れた「入り口に飾られた『ここからすべて(2020)』の意味」が、ここで帰結します。

これまで蛹的なモチーフの作品を追ってきた最後に、この場所で羽化的な作品に出会うことになります。

↑『羽ばたく練習(2021)』

↑『蛹から再び(2021)』

新作の特徴として(というよりも年々の変化と言うべきかもしれませんが)、過去作品に比べて物質感が増していると言えると思います。過去作品は比較的表面を滑らかに仕上げているそうなのですが、最近の作品は絵具のざらりとした感じがそのまま残っていたり、制作過程でできた凸凹が砂絵のような様相を示していたりと、より生っぽさが出ているように感じます。

私は個人的に、この絵具のザラザラを、鱗粉(りんぷん)のように捉えていました。ちなみに鱗粉は、顕微鏡で観察すると魚のウロコのような形をしているため、鱗粉と名付けられたそうです。
(そう考えると、『ずっといい(2012)』の下部に魚が描かれていることにも新たな意味合いが見えそうですし、鱗の並びはまるで屋根の瓦のようでもあり家作品にもつながり、さまざまな点で興味深いですね)

少し話がズレましたが…作品の中の登場人物が羽ばたき始めたことで、作品表面に鱗粉が付着し、それが物質感を増しているように思えるのです。

現実のチョウが肉体的に羽化した場合、鱗粉は一度取れると再生されず、鱗粉が少なくなりすぎると飛ぶのが難しくなります。しかし絵の中の少女たちや私たち人間は、精神的な羽化を繰り返すことができると考えられます。

羽化を予感させる作品が今後どのような変化をしていくのか、非常に楽しみです。


『家11(2016)』

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引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/1353903484886601728?s=21

展示会場には家作品もあります。

こちらの作品は、空き家のように見える家をモデルに描き、生活感を加えるために排水溝ネットを被せて額装しているそうです。

カメラのレンズにネット(オクラが入っているような緑色のものとか)を被せて幻想的な写真を撮るという技法がありますが、ここでは生活感を加えるためにネットを被せているというのが興味深いです。

被写体や絵としては幻想的に生活感なく作品に落とし込むことが可能でも、家はやはり生活感の塊なわけで、その対比を見ているようで面白いですね。

前編に書きそびれてしまったのですが、会場には『家12(2016-2021)』という、2017年の「家」展に出品してしていた作品に加筆した新作もあります。こちらもぜひ◎

↑『家12(2016-2021)』

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非常に長くなってしまいましたが、これにてインスタライブの感想とさせて頂きます。これから展示に足を運ぶ方々は是非原画とその空間を(感染症対策をしながら)存分に楽しんでください!

2021年1月 / 文責:ナツメミオ

↓展示詳細↓

会期:2021年1月20日(水) ~ 2021年2月1日(月) ※最終日は午後5時閉場
会場:日本橋三越本店 本館6階 コンテンポラリーギャラリー


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