道行き
老人は海を目指していた。
(あの優しい介護士さんは抜け出した事を怒っているだろうか)
快速電車が彼の目の前を通り過ぎる。各駅停車はあと数分で到着するだろう。
(今頃大騒ぎになっているかもしれないな)
微かに笑ってゆっくりとベンチに腰掛けた。座る動作一つにもきしむ体との対話が必要だった。
(遠出はいつ振りだったか)
目元にいっそう皺を寄せ空を見上げる。黄みがかった瞳にもその青は美しく映った。
規則的な揺れが心地よい眠りを誘う。街の中心部と逆方向に進む電車は次第に乗客を減らし、気付けばその車両には彼一人だけになっていた。
(働いていた頃ならもうじき昼休みか)
腕時計から目を上げる。今の生活になってからもこれだけは毎日身に着けていた。結婚してすぐ妻がプレゼントしてくれた物だった。
(昔から自分のことは後回しな奴だったな)
車窓から見える景色がめまぐるしく変化する。背の高い建物やアスファルトが減り、田畑や野山が続く。元気な日差しと戯れた風が色濃い緑の香りを運んでいた。
自動改札のない昔ながらの駅を抜け道路を進む。白いシャツが汗を吸い始めていた。負けてなるものかと帽子を目深にかぶり直して足を動かす。
(昔はいつもこうだった。どこに行くにも何をするにも自分の力で、だ)
今のように便利でなかった学生時代。飲み食いする金欲しさにどこへだって歩いて行った。
(あの頃は色んな奴等と一緒に歩いたな)
大勢の友がいて若かりし頃の妻がいた。いつも羽目を外す彼のことを心配するような困ったような顔で見ていた彼女。ゆらゆらと立ち上る陽炎に彼女の姿を映し見る。日傘の下、はにかむように笑うその姿。
(そういえばいつも白い日傘をさしていたっけ)
汗がつうっと頬を伝った。
坂を上りきると一気に視界が開けた。海の香りと潮騒が優しく全身を包み、熱を帯びた体がしばしの休息を得る。
水を飲み息を整える。辺りには覚えのある景色と見たことのない景色が混在していた。それでもなお記憶を頼りに海沿いを歩く。一歩一歩確かめるように。
(この辺の海の家でラムネを買ったはずだ)
小さな階段を見付け防波堤に上る。目当ての場所はそこにあった。男の表情にじんわりと喜びの色が広がる。
(ああ、やっと来られた)
海岸沿い一部だけウッドデッキが広がっている。毎年この辺りに立つ海の家が使っている物だろう。海開き直前の今は小さな机と椅子が二つ置かれているだけだった。男は引き寄せられるようにその椅子に近付いて行く。
そこには白い日傘が一本、立てかけられていた。男はしばらくそれを見つめ動かなかった。ゆっくりゆっくり時間をかけて自分の心をなぞるように言葉を探す。
「遅くなってすまない」
そう言うと、男は日傘の隣の席に腰を下ろした。
***
お題写真提供 草凪優介(https://note.mu/ysk_nagi)