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翳に沈く森の果て #13 川
璃乃(アキノ)は曇天の深い森の朝霧の中で、深い草を分けて進むにつれ足元を濡らす露の冷たさを清々しく感じながら、こうして龍胆(リンドウ)と言葉を交わしていることが相変わらず不思議だった。そしてずっと互いのことを知っていたのに初めて顔を合わせた時に感じる違和感と変な恥ずかしさもまだ消えずにいた。ただ璃乃の人生を共に生きて来た者として互いにいくつかの印象的な思い出について話していると、様々な葛藤がありながらも記憶の璃乃はいつも重要な折には精一杯考え抜いてきた。そして最終的に龍胆がこれが最善だと選択した振る舞いをしながら生きてきたんだなというひとつの答えに行き着いてしまい、何だか複雑な気分になったのだった。
二人はいつしか少し下り坂になっている草むらを滑らないようにゆっくりと下りて行くとようやく新しい景色が広がって来た。鬱蒼と茂った大きな木の枝たちがどこからか流れて来ている小川を覆い隠すアーケードのように生きていて、この川は緩やかに山を下って行っているようだった。小川の側まで斜面を下りて来た璃乃は川縁に屈み、穏やかな流れの浅い川底を覗き込んだ。
「水、すごく綺麗だね」そう言って手を浸けてみるととても冷たく気持ちが良くて、山道を歩いて来て喉が渇いていた璃乃は両手で川の水を掬って喉を潤した。
「僕も久しぶりにここまで来たな。本当に綺麗なところだよね。なんだか、僕は僕なりに最善を尽くして来たつもりだったけど、いつもそれが最高得点の回答だったのか分からない。正解はあったのかな。正解率はどのくらいだったんだろう・・。『璃乃の本心と誰かに見せるべき姿』、いつの間にか僕はその折り合いをつけるのが仕事になっていて、結局璃乃という役者を勝手に作り上げて演じさせて来たんじゃないのかな。最近そんな気がしてきていたところなんだよ。これで良かったんだろうか。『璃乃』はこれで良かったんだろうか?それに、こんなに美しい場所に長い間来ないで、僕は本当に何をしていたんだろう・・」龍胆は璃乃の側に立って、澄んだ小川の水が浅い川底に転がる丸い石に沿って次々と流れを変えながら下流へと流れていく様子を眺めながら呟いた。
「・・そういえば、リンドウは、僕っていうの?」
「ん?そうだね、でもいつもじゃない。こういう僕もいるし、状況に合わせたアイデンティティに微調整した璃乃も数パターンあるよ。」
「うん・・だよね。だけど、きっと多くの人がそうなんじゃないの?何も考えないで振る舞うよりは、失敗していたとしてもその時々で考えて、努力をして振る舞って来てくれたリンドウは、そんなに自分を責めることとかないんだと思うよ?よくわかならいけどさ。これからもたくさん失敗するかもしれないけど、他の人だって似たようなものなんじゃない?」
「僕は、これまで璃乃を守るために必死だったのに、璃乃に慰められてるなんて」と龍胆は笑いながら言った。
「あ、ありがとう。ごめんね。だけど、何だか私は生きて来て、いろんな経験をしてきたけど、リンドウがこんなにも頑張ってくれてたことを、今初めて知ったよ・・ありがとう。」璃乃は龍胆にそう言うと、一粒の涙がふと溢れて土の上に落ちた。そうして川面を見ていると枝の間を縫ってポツポツと小雨が降り始めたようだった。
「いや、実は僕のせいで璃乃に負わなくても良かった余計な傷をいくつも負わせて来たと思ってるんだ。もちろんたくさんわがままもさせてきたとは思ってるけど、璃乃の本心を犠牲にして来たことがあるはずだ。わかってるよ。それを今になって心から悔いているんだ・・。本当に申し訳ないことをした。璃乃だけじゃなくて、僕のせいで逆に璃乃の周りの人を傷つけたりすることになったこともあっただろう。それは結果的に璃乃を傷つけたことになるんだ。わかるだろ?」
「リンドウ・・。」
これまでとても落ち着いていた龍胆が、見るからに辛そうな様子を初めて見せたのだった。
「もういいよ。わかってるよ、リンドウ。そうだったかもしれない。でもリンドウはその時、その時にたくさん考えて選んできたんだよ。右か左、いつも正解を進めるわけじゃない。でもこうしてここまで来て、一生会えないはずのリンドウに会えたよ。立派じゃなくていいよ?頑張らなくちゃいけないけど、頑張ったなら独りで苦しまなくてもいいよ・・リンドウが辛いと、私も辛い。」
「璃乃・・それはそうだね・・ごめん。ありがとう。」璃乃が振り返って見上げてみるとリンドウの目も少し潤んでいるようだった。
「僕は・・そうだ。思い出した。高校受験の頃だったか、試験があるから行かないと言ったのに、なぜかあの父に楽しいわけもない旅行に私と母が連れて行かれたこともあったな。『口答えするな、女がそんなに勉強する必要はない!』なんかそんなことを言われた記憶がある。当時は何を言っているのか分からなかったし、いまだに理解できいないけど、いつも地雷を踏まないように気が張っていたし攻撃に備える必要があったからなのか、女性ということを不利に感じていたような気がする。当時周りにはアイドルやファッション誌に興味を持っている人もいた気がするけれど、僕はそんな風にはなれなかった。そうすべきなんじゃないか、自分はちょっとおかしいのかもしれない?と人に合わせてみたこともある。だけどあまり意味がなかった。僕は・・父に勝てない気がしていたから、女性であることを受け入れたくない気持ちがあったのかもしれない。今更だけど、今僕が自分のことを僕と話すのはそんな理由だったんじゃないかって思ったんだ。」
「リンドウ・・そうだったかも、しれないね。確かに、大人になるまではずっと牢獄にいるような気分だったよ・・。強くなりたい。父と戦っても負けない人間になりたい。なんかそんな風に思ってた気がするね?勝てるわけもないのに。全面的に非力な自分が悔しかった。そうだね。だけど、もうその時代はずっと前に終わったんだよ。だから、もう大丈夫だよね」
「そうだね・・僕は、誰ともこんな話はできなかった。僕は、璃乃を守るはずなのに、まさか璃乃に救われるなんて想像したことさえなかったよ・・」
龍胆は少し声を震わせて下を向いた。
「リンドウ、今までありがとうだよ?」
「うん。こちらこそ、ありがとう」
「ていうか、死ぬまで一緒に生きてかないとなんだから頑張ろうよ?」
「そうだね。死ぬまで、生きてるんだもんね、一緒に」
二人は少し笑って空を見上げた。小雨がたくさんの葉を揺らし、隙間をすり抜けて落ちてくる小さな雨粒は川に溶けたり土に消えていくのだった。
「じゃあ、とりあえずこの川を渡って向こうの丘へ急ごう。さ、おいで璃乃。浅いから平気だよ」
龍胆はそう言って迷いなく川の中に入って行き、璃乃に優しい笑顔を見せて片手を伸ばした。
「待って待って、急だね!?」川に慣れていない璃乃は澄んだ水の流れの上から足場を選んで一歩入ってみるとバランスを崩したが、緩やかで冷たい水の流れが膝下の辺りまで包み込んでなんだかとても気持ちよく、楽しい気持ちになって心まで洗われるような気がした。
続
月が満ちる時に