翳に沈く森の果て #15 憶
綾音のいる小屋は龍胆(リンドウ)の山小屋ほど深い森の中ではなかったが、それでも曇り空からこの部屋に届く陽の光は少なかった。けれど窓際に置かれた少し古い感じのピアノは遠かったはずの記憶を全く古いものに感じさせないほど自然な現実感を璃乃(アキノ)に与えた。璃乃は鍵盤の蓋が空いているピアノへ歩いて行き、綺麗な白い鍵盤を指でなぞってみた。
そうだ。このピアノだ。昔弾いていたのはこれだった。
「懐かしい・・」
璃乃は右手の人差し指でC4(ド)の音をゆっくりと押してみると、その小さな動きは箱の中の金属線に触れ、振動は空気を伝って璃乃の鼓膜を揺らした。響きは少しも古い感じがせず、小さな小屋の隅々まで柔らかに行き渡っていった。
「璃乃、ピアノが好きだったもんね。弾きたい曲が弾けるようになるまで何時間でも練習したりして。・・ほら紅茶が入ったからこっちに座って」と綾音が無邪気な笑顔で促してくれた。
「そうだったよね。その時は僕もよくフル稼働で特訓に付き合ったもんだよ」
「え、リンドーはそんなことしてたの?」
「そういうこと、なんだね。リンドウのお陰だったか・・何度も何度も、出来ないイライラと戦って出来るようになりたくて。手が覚えるまで何度も。だから手が覚えてできるようになっていくのが、本当に楽しかった。ここで左手がこう、だから右手のこの指はここでこう弾く、音符の長さを計算して、考えて、コードのルールを習得して・・リンドウ、改めてありがとう。たくさん付き合ってくれてた。」璃乃はなんだか笑いが込み上げて来た。
「いや、別にお礼とか・・僕がそういうのが好きで、それが仕事だっただけだ。それに、璃乃が努力しているのを見ているのは、好きだった。できるようになるが、同じように嬉しかったよ。」
「そうだったんだ。そりゃそうか。アハハ・・あ、綾音ちゃん、もちろん音楽が好きで、楽しかったのは綾音ちゃんのせい、お陰だよ?」
「せい?綾音のせいなの?一番楽しいことだっただけだよ。で、綾音でいいよ?」
「あ、綾音。そうだね。一番楽しかった。綾音とリンドウがいてくれたから、一緒に頑張ってくれたから私はあの頃頭の中は音でいっぱいで幸せだったし、辛いことを忘れられたよ。最初にインスト(歌なし)の曲を作った時は新しいワクワクがいっぱいだったよ、自分にも曲が作れるのかってね。それからいくつも作って、バンドを組んだりして。レコーディングをした時の感動は忘れられないよね。頭の中にあるものが形になるっていうことは、素晴らしいことだよね。一人じゃできないことも、誰かの力を借りればできることもあるって感動だよ。色んな人たちと作業が出来たことも素晴らしい経験だった。涙が流れた時の景色は、今でも色褪せないんだよ。」
「璃乃、色々あって、しばらく音楽から離れてしまったこと、知ってるよ?とても辛かったね。でも、またいつでも楽しめばいいじゃないか」
「そうだよ、どんな時でもいい音楽はそばにあったし、感動をくれたし、癒されたり、励まされて来たよ?璃乃だって楽しめばいいし作ってもいいんじゃない?」
「・・・」
璃乃は龍胆と綾音と山小屋で昔話をして二人に説得されるなんて夢にも思わなかった。会うはずのない二人。ここはどこだったんだっけ?という思いがよぎったが、無意味だということはよくわかっていた。
「ありがとう・・また、できるのかな」
「できるよ、何も気負うことはない。誰も止めない。悩まないで、こうでなければならないとかいうあれこれも別に無視してみればいいんじゃないのか?」
「それ、多分リンドウの言うことじゃないよね・・」
「そうだよ、言うなら璃乃じゃなくてわたしだよね」
「ま・・そうなんだろうけど、ちょっとイライラするときがあるんだよ。璃乃のそのカタイ頭?なところ」
「カタイアタマ・・」
「確かに、わたしも窮屈だな、って思うときがあるけど、それを言うならリンドーのせいなんじゃないの?」
「おい、ま、少し前まではそれが仕事だったしそういう性格だったよ。でも、最近はちょっと変わったよ。というか、疲れたんだよ。歳のせいなのかもな。」
「とにかくさ、りんどーの言う通り、璃乃の好きにやればいいんじゃない?作るだけなら誰にも聴こえないから誰も怒んないし」と言って綾音は子供のように笑っていた。
「そうだね。二人とも、なんか心配してくれてありがとう。ずっと、私の味方で、応援して来てくれたんだよね。二人の言う通りに、やってみるよ。ここを出たら、また心のままに音を鳴らしてみるよ。」
「うん、璃乃の音をまた聴かせてよ。一緒にまた作りたい!」二人は笑顔で頷いてくれたのだった。
続
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